攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

鞆幕府 の検索結果:

戦国時代のはじまりと終わり

…職を辞職しておらず、鞆幕府も含めるべきという考え方もあるでしょう。(義昭が将軍職を辞任したのは1588年(天正16年)のこと) そもそも最近の定説では鎌倉時代は源頼朝の征夷大将軍就任の1192年(建久3年)ではなく、それより前の1185年(文治元年)からスタートしているので幕府成立と時代区分も一致しないのですが、この点も考慮しはじめるとさらにややこしくなりますね。 始まりと終わりはややこしい そもそも権力の移り変わりは一日で完了するものではないことも大事なポイントです。たとえ…

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

…ムページ 少なくとも鞆幕府での義昭は「九七の桐」を使用していたことがわかります。福山市鞆の浦歴史民俗資料館に「義昭はいつから使っているのか、あるいは義輝などその前から足利将軍家で使われていたのか」を問い合わせたところ、「義昭は鞆に来る前から使っていると思うが、いつからかについてはよくわからない」と回答をいただきました。 余談ですが、鞆の浦歴史民俗資料館では現在、特別展「鞆幕府 将軍足利義昭」を開催中です。 news.kojodan.jp さらに五五の桐も!? この話を攻城団で…

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…近江幕府」のように「鞆幕府」として存続していたとする説もあります。幕府の本拠がどこにあったのかという問題と、朝廷に任じられた将軍職の就任期間の問題をわけて考えると、室町幕府の終了年は義昭が将軍職を辞任した1588年(天正16年)ともいえます。 ともあれ「応仁の乱」の最中に就任した9代・義尚から15代・義昭まで、戦国時代においても足利将軍が、ときに畿内の実力者の傀儡として、ときに彼らに抵抗して争いながらも、武家社会の中心であったことはまちがいなく、それは将軍という権威や人脈が戦…

明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

…放後の義昭の政権を「鞆幕府」と呼ぶ。まだ収入源はあり、将軍権威をもって外交戦を繰り広げていたことから、幕府はまだ滅亡していなかったと見ることもできよう。 中国地方で対信長の執念を燃やし続けた義昭だが、己の手で信長を倒すことはできなかった。「本能寺の変」で光秀が信長を倒したからだ。信長死後においても諸大名と外交を行ったが、毛利輝元への影響力は失っており、具体的な成果を残すことはできなかったようだ。一方、信長の実質的な後継者となっていた秀吉から「養子にしてほしい」と頼まれて拒否す…

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