鳥取藩 の検索結果:
…井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。 なお今回このテーマを取り上げたのは、団員のたまさんから201…
…長吉が姫路から入り、鳥取藩主となって城の大改築を行ったが、明治に破却された。 播磨・備前・但馬で成果を上げた秀吉の中国方面軍が次のターゲットとしたのが因幡であり、ひいてはこの鳥取城であった。しかし、堅い守りのこの城を落とすのは難しい――そこで秀吉は播磨の三木城に続き、再び兵糧攻め作戦を取る。しかも今回は、あらかじめ因幡中の米を買い占めておき、かつ農民たちを虐待して城に避難するよう仕向けた。兵糧攻めで早く城を落とすためには、城内の兵糧が早く尽きる必要がある。米を買い占めれば備蓄…
…前者が岡山藩、後者が鳥取藩を代々継承することになりました。どうしてこんな複雑なことになったかといえば、忠継・忠雄兄弟の母親・督姫(利隆は別)に理由があります。彼女は家康の次女で、北条氏直の未亡人にあたる女性なのです。 つまりどういうことかといえば、伊達家が次男に家督を継がせたのも、鍋島家が長男を廃嫡したのも、すべては「時の権力者の不興を買わないように、厚遇を受けられるように」という目的の下の行動だったのでは、という推測が成り立つのです。徳川家が「秀吉にかわいがられた男」を警戒…
…00万石」 岡山藩・鳥取藩池田家の例はちょっと変わっている。他のケースと違って徳川家ゆかりの子は家督を奪わず、新たな藩を建ててもらったのである。 池田家の発祥は諸説あるが、戦国時代においては池田恒興が織田信長の乳兄弟として、また側近として活躍したのが有名である。信長の死後は羽柴秀吉についたが徳川家康との戦いの中で息子とともに討ち死にし、生き残った次男の輝政が跡を継いだ。この輝政が徳川家康の娘。督姫を継室にもらって「神君の婿」と呼ばれたのはすでに紹介したとおりである。 さて、関…
…(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部…
…久院は自分の弟で初代鳥取藩主となった池田長吉のいる鳥取城にやってきて、ここに彼女の居所があったことから、「天球丸」と名付けられたそうです。 ただね、ここで話がややこしくなるというか、現地ではお寺を建立する際に地中から「球」が掘り出されたことから「天球院」にしたと案内されました。一方、天久院が山崎家盛と離縁したのは「関ヶ原の戦い」前だから鳥取城で暮らしたのは1600年(慶長5年)頃です。だとすると鳥取城の「天球丸」ももともとは「天久丸」と呼ばれていて、1631年(寛永8年)以降…