攻城団ブログ

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黒田孝高 の検索結果:

【江戸時代のお家騒動】黒田騒動 忠臣の中の忠臣・栗山大膳、命懸けの直訴

…な参謀として知られる黒田孝高を父に持ち、自身も関ヶ原の戦いで小早川秀秋を寝返らせて東軍の勝利に大きく貢献するなど、名の知られた武将である。 その関ヶ原の戦いでの功によって長政は筑前一国を与えられ、ここに福岡藩を成立させた。総検地を行うなど藩の基盤を整えることに力を尽くした長政は、領土を分散させて自分の息子たちにそれぞれ相続させることで、福岡藩の支藩を成立させ、黒田家による支配をより一層強固なものにしようとしていた。 しかしそんな長政にも、憂慮しなければならない事柄があった。わ…

初代藩主と藩祖のちがい

…、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長9年)まで生きていますが、豊臣政権下の1589年(天正17年)の時点で隠居して、長政に家督を相続しています。 藩祖を辞書でひくと「藩を創設した人。藩主の先祖。」(大辞林)、「藩主の先祖。また、藩の最初の領主。」(精選版 日本国語大辞典)とあるのですが、前田家や黒田家のように江戸幕府の創設前後まで存命しており、藩主家の地位を確立するために大きな功績を果たした人物の場合は例外的に初代藩主と別の人物が藩祖…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…を命じられ、代わって黒田孝高がそこに入ることになった。これに反撥した鎮房はゲリラ戦を展開して孝高を苦しめたが、最終的には彼の策略によっておびき寄せられ、酒宴を装って暗殺されてしまった。秀吉と対立した関東の覇者・北条家も滅ぼされ、東北地方の諸大名のうち、秀吉による北条攻めの命令を無視し、かつ秀吉とよしみを通じていなかった大崎、葛西、黒川といった大名は取り潰された。 秀吉は旧織田家時代の同僚たちも例外としなかった。織田家の重臣であった丹羽長秀の丹羽家は、長秀の生前には秀吉に厚遇さ…

日本一の槍を呑み取った母里太兵衛(黒田節)

…とものぶ)である。 黒田孝高(いわゆる官兵衛)・長政の2代に仕えて戦功を立てた歴戦の将で、いわゆる「黒田24騎(25騎とも)」の1人にも数えられている。一度口にしたことはのちに過ちとわかっても翻さないような、頑固一徹かつ剛直な男であったという。 そんな彼が福島正則の酒宴に出席したのは朝鮮出兵が休戦中のころ、京は伏見城でのことだった。このとき、正則は大杯になみなみと注がれた酒を太兵衛が飲み切れるかどうかに秘蔵の宝物をかけた。これを受けた太兵衛は見事大杯の酒を飲み干し、賭けの品―…

築城の名手(3)黒田官兵衛が築いた城

…ひとりは黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)です。 黒田官兵衛といえば豊臣秀吉の軍師であり、竹中半兵衛とあわせて「両兵衛(二兵衛)」と呼ばれていますが、同時に彼はこれまでに紹介した藤堂高虎や加藤清正と並んで「築城の名手」としても知られており、居住した中津城や福岡城のほか、以下のお城について縄張りや助言を行ってかかわったとされています。 黒田官兵衛がかかわったとされる城 妻鹿城(1577年、天正5年)※秀吉に姫路城を譲った後に、自らの居城として修復 篠ノ丸城(1580年、天正8年)…

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