かつて秀吉が築いた御土居はいまでも京都市内に部分的に残っていますが、鷹ヶ峰の御土居は誰でもフェンスの中を見学することができるんです。
今回は天守の屋根に使われていた素材についての解説です。多くの天守はいわゆる瓦ですが、なかには銅板などの金属を使ったものや、石を使ったものもありました。こうした素材のちがいによって天守の見た目に個性が生まれるわけですね。
京都文化博物館で開催されている総合展「明智光秀と戦国京都」を見に行ってきました。
「関ヶ原の戦い」の際は「九州の関ヶ原」や「東北の関ヶ原」など全国各地で家康陣営と三成陣営が戦っていましたが、この長谷堂城を巡る攻防が「東北の関ヶ原」と呼ばれています。
今回は天守の屋根についての解説です。姫路城や名古屋城の天守を見ると屋根の構造が複雑になってると思いますが、入母屋造や切妻造はそのまま入母屋破風、切妻破風と破風の名称にもなってますね。
七尾城は訪問した人の満足度が高い名城ですが、上杉謙信を撃退し、のちに攻め落とされたという歴史がその価値をさらに高めている気がします。
今回は天守にある出窓についての解説です。現代建築では出窓は採光目的や部屋を広くするためにつけられることが多いようです。ネコも喜びます。
明智光秀が斎藤家に仕えていた頃、美濃から東にある信濃・甲斐では武田信玄の勢力が拡大しつつありました。信玄が越後の上杉謙信と戦った「川中島の戦い」のうち山本勘助らが討死したのは四度目(=永禄4年)で、これは「桶狭間の戦い(永禄3年)」の翌年に…
二見書房から発売された「名城の石垣図鑑」を5名の方にプレゼントします!
今回は天守を装飾する窓についての解説です。華頭窓は知ってましたが、連子窓というのは知りませんでした。
鉢形城というと北条氏邦が城主のイメージが強いですが、それより前に長尾景春がこの城を拠点に太田道灌と戦っています。
小諸城は「天正壬午の乱」の幕開けともなった城です。北条家に敗れた関東御取次役・滝川一益がこの城から伊勢に逃げ帰ったため、支配者不在となり、徳川家や真田家を巻き込んだ争乱がはじまりました。
今回は天守の外壁の意匠についての解説です。金沢城のなまこ壁は有名ですが、城郭だけじゃなく街中でも目にすることがありますね。
攻城団に登録して、訪問記録を残していくと、あなたのお城めぐりの傾向を自撮集計&分析してくれますよ。
今回は天守の色のちがいを決めることになる外壁についての解説です。よく豊臣系=黒、徳川系=白といわれますが、これはまちがいで名護屋城や聚楽第など秀吉自身も白い天守を築いています。