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長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

長谷堂城の築城時期や築城者はわかっていない。
ここは出羽国最上郡を本拠地とする最上氏の重要拠点であった。隣国には伊達氏がおり、いざこざが絶えなかったからだ。1514年(永正11年)には伊達稙宗によって落城させられ、翌年の和議によって返還された。しかし、1521年(大永元年)には伊達氏は再び兵を出しており、両者は再び争った。それは稙宗のひ孫、政宗の時代でも変わらなかった。両者は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で激突する。

「関ヶ原の合戦」は天下統一を果たした豊臣秀吉の死後、秀吉存命中に生じていた文官と武官との確執、徳川家康の野望によって起こったと言える。
戦いの3ケ月ほど前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐するために伏見城を出陣している。景勝が上洛命令に応じないため、豊臣政権への反逆の疑いを持たれたためだ。上杉方もそれを回避するために動いたが、家康は邪魔な上杉氏をつぶすために上杉方の申し開きを受け入れず、征伐に動きだした。戦いは止められないものと感じた景勝の家臣・直江兼続は『直江状』という家康を批判した手紙を本人に送っている。

両者の激突は必至だったが、家康が伏見城を離れた後、五奉行のひとり・石田三成が家康を打つべく挙兵した。
秀吉の遺命を守る三成と、天下人になろうとする家康の確執が表面化したわけだ。挙兵を知った家康は下野国小山(現在の栃木県)で引き返し、両者は関ヶ原で激突することになる。

その間、各地でも東軍西軍に分かれての争いが行われており、長谷堂城(山形市長谷堂)での戦いもそのひとつであった。元々、山形城主最上義光は家康には批判的で、景勝に賛同する立場であった。しかし、東軍が有利な状況を知って家康に与した。
その態度に怒った景勝は家臣の直江兼続に命じて、義光を討つために兵を出した。兼続は米沢城(山形県米沢市)を出発し、9月13日に山形城の支城・畑谷城を攻め、1日で落城させてしまった。

次に兼続は同じく山形城の支城・長谷堂城を狙った。山形城を落とすには、長谷堂城を攻略する必要があり、義光は多くの兵を長谷堂城の守備に当てている。
9月15日、兼続率いる上杉軍が長谷堂城を攻め立てた。上杉方の目論見通り、最初は攻勢だったが、最上勢が粘り、早期決着には至らなかった。そのため、9月16日に最上勢が要請した伊達政宗の援軍が到着し、最上氏有利に変わった。政宗が救援したのは、義光が政宗の伯父にあたること、最上氏が敗れれば上杉氏が益々力を持つことを懸念してのことだといわれている。

決着がつかないまま戦いは長引いたが、9月30日ごろ両陣営に関ヶ原での西軍敗北の一報がもたらされた。そうなっては家康率いる大軍が北上して会津を攻めてくるかもしれない。上杉は兵を引き、長谷堂城の戦いは終わった。
戦後の論功行賞では、東軍の義光は庄内三郡と由利郡の領有を認められ、57万石の大大名となっている。一方の景勝は会津120万石から出羽米沢領30万石と大幅に減封された。長谷堂城の堅さが両者の運命を大きく左右したといえるだろう。

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