攻城団ブログ

日本の歴史をまるごと楽しむためのブログ

攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

山中鹿之介(幸盛、鹿介)のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました。
本満寺は日蓮宗京都八本山のひとつですが、それよりも京都随一の美しさともいわれる境内の大きな枝垂れ桜が有名です。

f:id:kojodan:20190910195744j:plain

寺町通沿いに「山中鹿之助幸盛墓有」と書かれた石碑があります。

f:id:kojodan:20190910195524j:plain

f:id:kojodan:20190910195507j:plain

立派な山門です。

f:id:kojodan:20190910195542j:plain

本満寺はこんなお寺

本満寺は1410年(応永17年)に関白・近衛道嗣(みちつぐ)の嫡子、玉洞妙院日秀上人が今出川新町に朝廷より敷地3万坪を与えられて創建した寺院です。1536年(天文5年)の「天文法華(てんもんほっけ)の乱」で焼失し、1539年(天文8年)に12世・日重上人のときに現在地へ移転したとあるので秀吉の都市改造とは関係なさそうです。
江戸時代の1751年(宝暦元年)には、35世・日鳳上人が8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈り、その効果があったことから以来、将軍家の祈願所にもなりました。
境内の墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康の二男・秀康の正室である蓮乗院(れんじょういん)の石廟があります。寺宝には狩野元信筆の日蓮上人画像などがあります。

f:id:kojodan:20190910195559j:plain

本満寺の御朱印は寺務所でいただけます(9:00~17:00、年中無休)。
ちなみに日蓮宗では御朱印とは呼ばず、「御首題」もしくは「御題目」と呼ばれます。

f:id:kojodan:20190910195716j:plain

御朱印帳もわけて、日蓮宗用に御首題帳を用意される方もいますが、ぼくは同じ御朱印帳に書いていただきました(500円)。
調べてみると日蓮宗以外の御朱印が書いてあると略した「妙法」で、専用の御首題帳にお願いすると「南無妙法蓮華経」と書いていただけるようですね。ぼくは他宗派と混在していたので「妙法」でした。
(押していただく朱印は同じようです)

f:id:kojodan:20190910195731j:plain

山中鹿之介のお墓はどこに?

鹿之介のお墓は裏手にまわったところの墓地にあります。

f:id:kojodan:20190910195618j:plain

案内はないのですが、正面の建物の前を右折すると正面にあります。

f:id:kojodan:20190910195658j:plain

f:id:kojodan:20190910195640j:plain

なぜ京都に山中鹿之介のお墓が?

「山陰の麒麟児」と呼ばれ、仕えていた尼子氏の再興を最後まで願い「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったとされる山中鹿之助は織田信長の支援を受けて上月城を任されます。
しかし毛利軍に攻められ、籠城するものの、信長に三木城の攻撃を優先するよう命じられた秀吉の援軍はなく、降伏しました。生け捕られ人質となった鹿之助は、備中松山城に在陣する毛利輝元のもとへ移送される途中で謀殺されました。

f:id:kojodan:20190912214941j:plain
(安来市立歴史資料館蔵)

岡山県高梁市で殺された山中鹿之介のお墓がなぜ京都にあるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商・鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かが、本満寺に墓所を建てたという話です。
真偽は不明ですが、鴻池財閥と山中鹿之助がつながっていたのは知りませんでした。

「天文法華の乱」と現在地への移転時期について

寺伝によれば、1539年(天文8年)に12世・日重上人のときに現在地へ移転したとあります。
ここで「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」について少し理解しておく必要があるので説明すると、京都において日蓮宗(法華宗)というのは当時絶大な力を持っていました。また武装もおこない、他宗派とも争っていました。
1532年(天文元年)、管領・細川晴元と対立した浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)が入洛する噂が広がると、翌年には日蓮宗の門徒集団(法華衆)は晴元とともに山科本願寺を焼き討ちし、さらに勢力を拡大しています。

1536年(天文5年)には比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れたことに端を発し、両者の対立は激化し、最終的には延暦寺が南近江の守護・六角定頼や畿内近国の大寺院を味方につけ約6万の軍勢を動員、京都の日蓮宗寺院、法華宗二十一本山を焼き払いました。これが「天文法華の乱」で、二十一本山は堺の末寺に逃れています。
なおこのときの被害ですが、下京の全域、および上京の3分の1ほどが焼失しており、被害規模は「応仁の乱」を上回っています。

その後、1542年(天文11年)に勅許が下り、十五本山が京都に戻ったのですが、本満寺は近衛家との関係が深いことから、ほかの本山に先駆けて1539年(天文8年)に、関白・近衛尚道の外護によって京都帰還が許されています。
この京都帰還のタイミングで現在地に再建された説と、いったんは別の場所にあって、寺町通の多くの寺院と同じように豊臣秀吉の京都改造計画によって移転してきたという説があります。

いったんは別の場所にあったという説の根拠は天文年間後期に描かれたとされる「上杉本洛中洛外図屏風」の存在です。この屏風絵にも本満寺が描かれており、その位置は、創建地の今出川新町(現在の元本満寺町)から南へ約300mの一条小川付近に描かれているのです。
そのため京都帰還時には一条小川に再建され、のちに秀吉の命により現在地に移転したと考えられます。

f:id:kojodan:20190912214921j:plain
(上杉本に描かれた本満寺の位置は一条小川付近)

京都で再興された日蓮宗寺院

堺から京都に戻った日蓮宗寺院には「本能寺の変」で有名な本能寺をはじめ、その際に織田信忠が宿泊していた妙覚寺、本阿弥光悦や長谷川等伯にゆかりのある本法寺、秀吉の妙顕寺城築城にともないさらに移転させられた妙顕寺などがあります。

こうしていろいろとつながっていくのはほんとうにおもしろいですね。

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する