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【戦国合戦こぼれ話】桶狭間の戦い―勢いを活かした織田信長

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前2回で紹介した関ヶ原の戦いと大坂の陣において、徳川家康は入念な準備と事前工作によって勝利をつかんだ。
しかし、若き家康が今川家臣として参加した桶狭間の戦いは別の展開を見せた。
今川義元の大軍を、織田信長の勢いを利した用兵が打ち破ったのだ。

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『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣)

駿府・遠江・三河の三国を支配する義元が、2万(兵数はすべて諸説あり)という未曾有の大軍を率いて隣国・尾張に侵攻したのは1560年(永禄3年)のことである。
一般には「上洛を目指して」の出陣であったとされているが、近年の研究では「領土争いの延長線上であった」と考えられるようになった。

一方、待ち受ける信長は尾張一国すら完全支配にはこぎつけておらず、動かせる兵力もわずかだった。
しかし、信長は2000の兵力を桶狭間山で休息中の義元本隊(5000あまりとされる)に叩きつけることで逆転を図る。
本拠地の清洲城を発って突き進む織田軍は、織田方の城を攻めるなどの理由で分散配置されていた今川方の部隊に捕捉されることなく突き進み、義元本隊を守る前衛部隊を打ち破った。

しかもこの時、今川軍に向かう形ですさまじい雨風が吹き、織田軍が突き進むための隙を作る。
義元を守る本隊は桶狭間山を降りて東へ逃げようとしたらしい。
しかし、この近辺の地形は入り組んでいて、逃げるにも、周辺に展開していた他部隊を呼び集めるにも向いていなかった。
逆に言えば、追う織田軍にとっては非常に都合がよく、ついに義元を追い詰めてその首を取るに至った。

義元は大軍をかき集めながら、信長との直接対決ではそれを有効に使えなかった。
対して、信長は少ない兵に勢いと天の利、地の利を乗せて、数少ないチャンスをものにした。

事前準備は確かに大事だが、機転や判断がそれを越える瞬間というのは確かにある――これは私たち自身にも直接跳ね返ってくる教訓だ。
完璧な準備におぼれて油断せず、圧倒的な劣勢に絶望して好機を逃がさず、チャンスをつかめ、と桶狭間の戦いが私たちに教えてくれているのだ。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年5月25日)
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