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【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

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家康が将軍の権威の象徴として京に築城した二条城は、幕末まで様々な出来事や大きな転換点を見守ってきました。家康時代の二条城はいまとはかなり違う姿をしていたと考えられています。どのような城だったのか見てみましょう。

京での権威の象徴

二条城は歴史の大きな転換点を見守ってきた

かつて「二条城」と呼ばれた城は歴史上に複数存在します。室町時代に織田信長が将軍足利義昭のために築城したいわゆる「旧二条城」、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に京における拠点として築いた「二条第(妙顕寺城)」、そして徳川家康が築城した「二条城」で、これが現在私たちが知っている二条城です。徳川家康が築城したのち三代将軍家光の時に大改修されているため、実際に見ることができるのはこの当時の二条城ということになります。

徳川家康が築城した二条城は、1601年(慶長6年)に西国大名を動員した公儀普請(天下普請)によって築城されました。造営総奉行は京都所司代の板倉勝重、作事大工棟梁は中川正清が担当しました。1603年(慶長8年)3月に天守以外の部分が完成、1606年(慶長11年)に天守が完成しました。
家康は1603年(慶長8年)2月に伏見城で征夷大将軍の宣旨を受けましたが、3月に竣工したばかりの二条城に入城し、ここから参内して将軍拝賀の礼を行いました。さらに、朝廷からの勅使を迎えて将軍宣下の賀儀を終え、親王、公家衆などが表敬訪問してお祝いを表しています。この将軍就任に伴う儀式は家康から始まり、2年後の1605年(慶長10年)に二代将軍秀忠、1623年(元和9年)に三代将軍家光まで二条城で行われました。
1611年(慶長16年)に二条城二の丸御殿にて家康と豊臣秀頼が会見したのは有名な話です。このとき、家康は秀頼の成長ぶりに驚き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したという逸話も残っています。

シンプルな縄張りと望楼型天守

家康が築いた二条城はどんな姿だったのだろうか

家康が築いた二条城に関しては「洛中洛外図屏風」(林原美術館所蔵など)に描かれたものが有名です。高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブで見ることができますので、ぜひそちらを参照しながら読み進めてください。

ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム

これによると、城は南北に長い方形の単郭で、周囲を石垣と水堀が取り囲んでいました。現在の二条城の二の丸東側部分にあたると考えられており、天守は北西隅にありました。単郭とは長方形の本丸のみからなるもので、城の本質部分だけのきわめて単純な構造です。
東側には巨大な櫓門がありますが、これが東大手門で堀川に面しています。洛中洛外図屏風は複数あって細かい描写が異なりますが、おおむね、北側にも櫓門があってこの西に土塀が続き、北西隅に五重天守が描かれています。
この天守は大和郡山城天守を移築したものです。徳川氏の京都における本拠としては伏見城があったため、慶長期の二条城はそれほど大きな天守は必要なかったと思われ、1日でも早く城を完成させるために大和郡山城天守をリサイクルした可能性があります。さらに寛永期には淀城天守として再移築されています。
もともとあった大和郡山城天守台の発掘調査によると天守台は8間×7間(約17m×15m)であり、天守中央部の身舎(もや)は4間×3間(約8.5m×6.5m)でした。さらに、その後に再移築された淀城天守台の礎石の広さもほとんどおなじであることから、二条城天守の広さも変化なく同じであったと考えられます。
石垣の石材については発掘調査の結果で古いことがわかっており、聚楽第の旧材が再利用されたと考えられます。

編集部注
この天守台移築説には異論もあります

天守の姿を屏風から読み解くと、壁は白漆喰で塗りこめられていますが、柱や長押が見える真壁造(しんかべづくり)であることがわかります。また、屋根は瓦葺きです。二重目に入母屋破風がみられることから二重目が大入母屋造であり、その上に望楼がのる望楼型天守であると考えられます。最上重には軒唐破風があり、入母屋破風は木連格子にするなど格式の高い装飾を施しています。また、「洛中洛外図屏風」によっては最上階に廻縁を描いているものもあります。三重目、四重目にも入母屋破風が描かれていることから、おそらく明かり採りの出窓であったと思われます。
この壮麗な望楼型天守は北西隅にそびえ立ち、天皇の御所を見下ろすような配置となっていました。

外郭の堀は石垣づくりで、その上には多門櫓が廻らされています。一方で内側の塀は格式の高い築地塀となっています。二条大路という市街地に単郭というシンプルな構造の城、しかも儀礼と将軍の宿泊所としての役割ではありますが、築城当時は豊臣秀頼が大坂城にいたこともあり、防備と格式の両方を備えたつくりであったと考えられます。

将軍の城・二条城

将軍の城としてふさわしい巨大城郭だ

先にも述べた通り、現在みられる二条城の姿は家光が三代将軍だった寛永期に、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修されたものです。天守台も残されていますが、この天守台も寛永期天守の天守台で、慶長期天守台よりも大きいものです。
徳川家康時代の二条城の遺構を明確に見ることはできませんが、二条城は初代将軍である家康から三代将軍家光までが将軍就任の祝賀式を行い、最後の将軍となった慶喜が大政奉還をした城でもあります。言わずもがな、二条城二の丸御殿は国宝であり、二条城は世界遺産にも登録されています。ぜひ二条城に足を運んで、徳川将軍家の京における権威を感じてみてはいかがでしょうか。

二条城の基本情報

築城者 徳川家康
築城年代 1603年(慶長8年)
別名 旧二条離宮、恩賜元離宮二条城
分類 輪郭式平城
家康にまつわる出来事 1601年(慶長6年)に上洛時の宿泊所として築城を開始。公儀普請(天下普請)によって西国大名に築城を命じた。
歴代城主 城主は歴代の徳川将軍であったが、江戸にいて不在だったため城代などを置いていた

まとめ

二条城は、徳川家康が築いた将軍のための宿泊所であり、儀式典礼の城です。家康が築いた当時の二条城は大きく改修されているため目にすることはできませんが、資料などによりさまざまなことがわかります。
単郭というきわめてシンプルな城の構造ではありますが、石垣づくりで多門櫓を周囲にめぐらすと同時に内部は格式高い築地塀を設けるなど、防御と格式を兼ね備えたつくりです。さらに天皇の御所からでも見えたであろう五重の天守は白漆喰と瓦屋根をまとってそびえ立ち、徳川将軍家の象徴となったのです。

参考文献

  • 現地案内板
  • 二条城パンフレット
  • 「城の鑑賞基礎知識」(三浦正幸著、1999年9月16日、至文堂)
  • 「歴史群像シリーズ 図説縄張りのすべて」(加藤理文ほか、2008年3月10日、学研)
  • 「図説 近世城郭の作事 天守編」(三浦正幸著、2022年1月31日、原書房)
  • 「図説 近世城郭の作事 櫓・城門編」(三浦正幸著、2022年5月25日、原書房)
  • 「日本の城 天守・櫓・門と御殿」(三浦正幸監修、2020年1月6日、学研プラス)
  • 「世界遺産二条城公式ガイドブック」(京都市、令和元年9月)
  • 高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 「歴史人」(令和4年7月6日、通巻140号)

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