攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

佐々成政 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

…この頃、秀吉は越中の佐々成政攻めを進めていたが、家康が成政に味方するという噂が流れる。そこで秀吉は家康に「家老の中から人質を出せ」と要求し、家康の動きを抑え込もうとしたのである。 「秀吉何するものぞ」と燃え上がる徳川家中において、ただ秀吉との交渉担当(取次)を務める数正だけが秀吉との再びの正面衝突を嫌い、人質を出すべきだ、と主張したのではないかと考えられている。しかし家康は北条氏との同盟によって改めて秀吉に対抗する道を選び、人質は出さないと決断する。その直後、数正は出奔し、秀…

知ってる? 水野勝成

…九州に移してからも、佐々成政、黒田長政、小西行長、加藤清正など、そうそうたる武将のもとへ仕官。一番首プレーヤーとして怒涛の活躍をする。しかし、いずれの職場も定着することなく、輝かしい戦績を残しては、間も無く逃亡を繰り返す。さすらいのスーパーフリーランスの名をほしいままにする。 その7. 虚無僧? 姫谷焼きの器職人? 謎の経歴 戦国フリーランスとしての1000石のセレブ生活を蹴ってふたたび放浪の生活へ戻った勝成。この時代の逸話も多く、虚無僧になった、姫谷焼の器職人になった、など…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…ようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑むことになった。 この戦いの中で、活躍した女性がいた。永福の夫人である。名前は判明していないが、「安」だという説もある。成政が攻めてきた時、末森城の兵…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…この頃になると北陸の佐々成政・四国の長宗我部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。 天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま順調に行けば九州を統一できる段階であったから、当然といえる。ここにいたって、大友側の課題は「秀吉が動き出す前にどれだけの時間を稼げるか?」となった。島津氏から…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

…秀吉自身は病と北陸の佐々成政討伐のために参加しなかったが、弟の羽柴秀長を総大将とし、宇喜多秀家・小早川隆景らが従軍して三方向から四国に上陸した軍勢は総勢11万の大軍であった。 これに対して、元親は四国中央部に位置する白地城を中心に、各地の城に兵を派遣して羽柴軍を食い止めようとしたが――さすがに多勢に無勢、一気に攻め込まれてしまった。結局、元親は秀吉に降伏。土佐一国の支配だけを許され、豊臣政権に組み込まれることになった。ここに長宗我部家勢力拡大の野心は潰えたのである。 しかも、…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…家臣時代の同僚である佐々成政が肥後に入ったが、検地をめぐって地元の国人たちと対立して大きな武力反乱を引き起こしてしまい、切腹に追い込まれてしまう。結局、鎮圧後に清正ともうひとり、小西行長が肥後に入って、この地を治めることになった。 関ヶ原の戦いが起きると、清正は東軍に与して九州の各地を転戦することになった。一方の行長は西軍に与して関ヶ原に出陣し、捕らえられて処刑されたので、清正は旧小西領のほとんどを与えられ、肥後一国(プラス豊後の一部)を領する、54万石の大大名となった。この…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…同じく秀吉と敵対した佐々成政も最終的には降伏し、その後羽柴姓と要地である肥後のほとんどを与えられたが、国人一揆を勃発させてしまい、切腹へと追い込まれてしまったと伝えられる。このような反発が起きるのは前回紹介した通り当然なのだが、さて秀吉はそこまで考えていなかったのか、それともあえてかつての同僚を死へ追い込んだのか。 秀吉の大名鉢植え政策 天下人となった信長・秀吉の政策に従う形で、多くの大名たちが本領より遠く離れた新たな所領に赴いた。従来の土地と結びついた武士のあり方からすれば…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…れました。前田利家、佐々成政といった武将もチョイ役で登場し、だんだんと知ってる名前が増えてきましたね。それにしても婿と舅が一度も会うことなく結婚するというのは現代のぼくらから見れば変わった話ですが、この当時の政略結婚ではわりと当たり前だったようです。余談ですが、ふたりの会見後に自宅に戻った光秀が母と嫁にからかわれるシーンがありましたけど、個人的にはああいうアットホームなシーンが好きです。 一度しか会ってない信長を「ああ、気に入った」と、一向に自分を信じようとしない高政をまるで…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…富山城に入城した後に佐々成政が入城するなど織田家と富山城の争奪戦を繰り広げることになります。 所在地 富山県富山市本丸1-62 アクセス 車の場合、北陸自動車道「富山IC」から約15分 電車の場合、JR「富山駅」から徒歩約10分 kojodan.jp 七尾城 こうして武田信玄や北条氏康といった強敵に織田信長が加わり、織田軍と加賀や越中での戦いが始まり「七尾城の戦い」が勃発します。 能登に進軍した謙信を迎え撃とうと七尾城を守る長続連は織田信長に援軍を要請するも謙信の調略により間…

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