攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田利常 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…を執りました。家康は前田利常に仕寄せを築かせ(塹壕を掘って土塁を築くこと)、軽々しく攻めるなと戒めていましたが、真田丸からの妨害と挑発に呼応する形で戦闘が始まってしまいました。この戦いでの徳川方の死者は数千人に上ると言われています。 一方で、11月23日ごろより始めた淀川の堤防築造が12月9日ごろ完了したのを受けて、家康は大坂城の南方および北の備前島から大砲による砲撃を始めました。一説には淀殿の近くで大砲の砲撃を受けて即座に和議交渉を開始したと言われますが、それほど心理的にも…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…いう点です。たとえば前田利常は「松平筑前守」、細川忠興は「羽柴越中守」、池田輝政は「羽柴三左衛門」と「名字+官職名」で書かれています。(上述のとおりじっさいに忠興は名古屋に来ていないのですが、あくまでも藩主の名が記載されるのでしょう) 秀吉や家康は上下関係を明らかにして、自らのファミリーに取り込むために「羽柴」や「松平」の名字を与えているのでこの絵図には大量の羽柴さんと松平さんがいます。かなり字が細かいので単眼鏡などを持参するといいと思います。 絵図の横の壁に実名と記載名の一…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…倹約令をしき、かつて前田利常が行った改作法を再び行うことで、立て直しをはかろうとする。 そしてこれらの政策は、体調の優れない吉徳に代わって大槻が執り行った。大槻は豪華な生活の抑制のほか、日雇い人の仕事を家中の者にさせるなどの倹約を行った。また今まで掃除人が馬などの糞を売って生活費の足しにしていたが、それを止め、糞を売った金を飼料の費用の足しにした。このように今まで当たり前にしていたことの中から無駄を見つけて排除していったのである。そのほか、新規の課税を立てたり大坂で借銀を調達…

【江戸時代のお家騒動】浦野事件 加賀藩内の独立領を統合する

…綱紀の時に、後見人の前田利常によって改作法と呼ばれる農政改革が実施された。この改革は、検地による収益の推定、給人による直接支配の禁止、税率の決定などを含んだもので、家臣と農民を救うために実施された改革として知られている。 しかし鹿島半郡と呼ばれる加賀藩鹿島郡の西南部は、1592年(文禄元年)以来検地が行われていなかった。この地を統治していたのは長家と呼ばれる一族で、1580年(天正8年)に長連竜と呼ばれる武将がこの地を織田信長から与えられて以来、代々継承されてきた。前田家の家…

【プレゼントあり!】地元の魅力を伝える「小松城浮城マップ」のご紹介

…全国随一の文化人大名前田利常の趣味が爆発した、まるで茶室のような数寄屋造の櫓が建てられていました。 残念ながらお堀は明治初期に埋め立てられてしまいましたし、天守も石垣を残すのみですが、そんな独特な形をしていた小松城の在りし日の姿がイメージできるようにしてあります。 この表紙のイラストを見ながら、現地では当時の姿を想像していただきたいですね。 最後に、これから小松城の訪問を検討されている方にメッセージをお願いします! 安藤 このマップは、お城だけでなく城下町全体を楽しめるように…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…に陣を置き、徳川方の前田利常などの軍勢を撃退したことはわかっているのですが、ではその真田丸がどこにあったのか、どんな形をしていたのかなど、実態についてはわからないことだらけです。 そもそもほんとうに信繁が築いたのか、あるいは以前からあった砦を改修して利用したのかすらわかっていません。 以前は絵図に残った真田丸の形状や、武田氏の流れをくむことから半円形の「丸馬出」だったと考えられていましたが、最近は半円形ではなく長方形だったとか、馬出と曲輪の二重構造だったとか、いろんな説が出て…

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