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【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

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徳川家康による最後の戦いとなった大坂の陣です。これについてもさまざまな研究論文や書籍、ウェブサイトがありますが、ここではそれらを踏まえながらできるだけわかりやすく記事にしていきたいと思います。
家康はなぜ豊臣家を武力で滅ぼさなければいけなかったのか、どういった行動を起こしたのかについて見てみましょう。最晩年の家康の気持ちを想像しながら読んでみてください。

大坂の陣勃発の理由-方広寺鐘銘事件

復元された石垣。豊臣大坂城は絢爛豪華だったという

関ケ原の合戦ののち豊臣政権はしばらくは存続していましたが、1603年(慶長8年)に家康は征夷大将軍となりました。すぐに豊臣を追い払おうとしたかというと、そうではありません。自身が将軍になると豊臣秀頼を大納言から内大臣に昇進させ、徳川秀忠の娘、つまりは自分の孫である千姫(7歳)を秀頼(11歳)と結婚させました。さらに2年後の1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると秀頼を右大臣に昇進させました。
このように豊臣公儀と徳川公儀の二重体制を維持し、豊臣と徳川の一体化を図る動きさえ見せていたのです。

しかし、家康がなくなったあとの徳川家を考えたとき諸大名が徳川に臣従するかが不透明であり、豊臣との二重体制を解消、つまりは秀頼を臣従させておく必要が出てきたのです。しかしすぐには行動に移しません。
その一方で、秀頼を支えていた加藤清正が1611年(慶長16年)に、浅野幸長と池田輝政が1613年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。

家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。

そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘事件で、大坂の陣の発端と言われています。方広寺は1586年(天正14年)に秀吉が造営したお寺で、1596年(慶長元年)の大地震で大破したものを秀頼が復興させていました。1614年に完成し、8月1日に大仏開眼供養、8月18日に大仏殿竣工式を執り行う予定にし、徳川に確認を取りながら進めていました。しかし、鐘銘に関東不吉な語があるとして徳川方が急に問題視しました。「国家安康」「君臣豊楽」という文字です。

大坂方はこの弁明者として片桐且元を駿府へ送りますが、家康は会おうとしません。一方で淀殿が送った使者は丁重にもてなし、何も心配することはないと伝えました。且元は秀頼が大坂城を出ること、淀殿を江戸へ送ること、秀頼が幕府の支配下にはいることの3つの条件を提示しますが、大坂方は裏切り行為として且元討伐を決めます。ここで家康は待ってましたとばかりに大坂方を討つ正当性をもって、武力による解決の道を選びます。
この辺りは家康の方が試合巧者だったと言えるでしょう。大坂方が反発することも計算に入れた上で、且元から徳川寄りの条件を出させ、大坂成敗の名目を作ったわけですから。

大坂冬の陣-激闘

大坂夏の陣図屏風。大坂冬の陣、夏の陣の2回の激戦で、豊臣大坂城は灰燼に帰した

9月7日、家康は西国の大名50名に命じて徳川幕府に対する誓詞を出させました。これで裏切りを許さなくします。10月1日、秀忠に出陣を通告するとともに、全国の大名に派兵を命じて大坂へ集結させました。大坂城の南西方面からの進入路である天王寺口に藤堂高虎を配置、家康は10月11日に駿府より出陣、秀忠は10月23日に江戸を出陣しました。
二条城に入った家康は11月15日に京を出発、大和路に沿って奈良・法隆寺方面を経由して大和口から大坂へ。秀忠は淀川に沿って南下し、枚方を経由して河内口から大坂へ進軍し、11月18日に合流。茶臼山で軍議を開きます。

豊臣方は撃って出るか籠城するかで揺れますが、最終的には籠城策を取りました。大坂城に立てこもる豊臣方と、それを包囲した徳川軍とで各地で激戦が繰り広げられます。11月19日木津川口の戦い、11月26日鴫野(しぎの)・今福の戦い、11月29日博労淵(ばくろうふち)の戦い、野田・福島の戦いなどです。これらの戦いを経て11月30日に豊臣方は完全に大坂城に撤退しました。
大坂冬の陣でもっとも有名な戦いが真田丸の攻防です。家康は茶臼山に、秀忠は岡山に着陣し指揮を執りました。家康は前田利常に仕寄せを築かせ(塹壕を掘って土塁を築くこと)、軽々しく攻めるなと戒めていましたが、真田丸からの妨害と挑発に呼応する形で戦闘が始まってしまいました。この戦いでの徳川方の死者は数千人に上ると言われています。

一方で、11月23日ごろより始めた淀川の堤防築造が12月9日ごろ完了したのを受けて、家康は大坂城の南方および北の備前島から大砲による砲撃を始めました。一説には淀殿の近くで大砲の砲撃を受けて即座に和議交渉を開始したと言われますが、それほど心理的にも圧力をかけ続けていたのです。
和議は5つの条件で締結を見ますが、家康が最も重視した条件があると考えられます。それは大坂城に集結している牢人衆の処遇です。大坂城には全国から牢人衆が集まっていましたが、徳川に不満を持つ者が多く、彼らを大坂城に留め置くことは危険と判断していたのです。真田丸の攻防があったためにその考えを一層強くしたのかもしれません。とにかく、牢人は不問とするが大坂からは退去させたいというのが本音で、そのために大坂城の二の丸・三の丸の破却と惣堀の埋め立てを条件として加えていたと考えられます。つまり、堀を埋め立てた大坂城は裸城であるため、牢人衆が大坂城を離れることを想定していたようです。

俗に徳川方が一方的に堀を埋めたとのイメージがありますが、現在では、豊臣方も合意の上で、しかも堀の埋め立ては大坂方も行うこととなっていたとの認識になっています。

<大坂冬の陣での和議5条件>
・豊臣方の牢人たちは不問とすること
・秀頼の身の安全と本領を安堵すること
・淀殿の人質としての江戸在住は不要であること
・大坂城を開城すれば、望みのところへ国替えさせること
・秀頼に対して嘘偽りは言わないこと

こうして冬の陣を経て家康の憂いの一つが解かれようとしていましたが、牢人衆の処遇問題がきっかけで夏の陣、そして豊臣滅亡へと進んでいくこととなりました。

冬の陣の新たな説として、豊臣秀頼による洪水作戦があります。NHKで2021年12月30日に初回放送された「決戦!大坂の陣」において、史料や最先端の洪水シミュレーションを駆使して、豊臣の洪水作戦が徹底解明されました。
詳しくはNHKオンデマンドで見ることができるので参照していただきたいですが、大坂城を包囲されないように秀頼が川を決壊させて洪水をおこし、大坂城の北と東を洪水地帯としたのではないかというものです。

www.nhk-ondemand.jp

これによって大坂城に近づけない徳川軍は南より攻めるしかなく、真田丸の激戦が引き起こされたとか、長期戦には持ち込みたくない家康は堤防築造を急ピッチで行わせ、洪水の水を引くことができ、大坂城北の備前島に大砲を配置することができたなど、大変興味深いシミュレーション結果となっています。
こういった検証も重ねていくと、大坂の陣では何が行われていたのか、家康と秀頼はどのようなことを考えていたのかということがさらに解明されるかもしれません。

大坂夏の陣-家康の真意か?

大阪城跡にある豊臣秀頼、淀殿ら自刃の地の石碑。家康の本心はいかに?

堀の埋め立てと牢人衆の処遇で決着を見た冬の陣。2月半ばには家康は駿府に、秀忠は江戸に帰っていきました。しかし、3月5日には、大坂ではその後も牢人が城を離れようとせず、堀を掘り返したり、柵をめぐらせて防御を固めたり、食料や牢人を集めたりしていると、家康に報告が寄せられました。これをきっかけとして、再度出陣することを決めます。先の和議が反故にされたためです。4月初旬に家康が出陣、続いて諸大名にも出陣を命じ、秀忠も江戸を出発しました。

大坂城の堀が埋められた豊臣方は撃って出るしかなかったため、郡山城の戦い、樫井(かしい)の戦い、道明寺(どうみょうじ)の戦い、八尾・若江の戦いなどが勃発しますが、いずれも徳川方の勝利となります。ついに徳川方15万、豊臣方5万が天王寺口、岡山口で対峙します。これが最後の戦いとなる天王寺・岡山の戦いです。
岡山口には前田利常が置かれました。天王寺口には松平忠直を置くと思われましたが、前日の八尾・若江の戦いで藤堂隊の援護を怠ったとして家康は忠直を先鋒とはせず本多忠朝に任せます。このような配置から家康が慎重に構えていた様子がうかがえます。家康も秀頼も専守防衛に徹するように指示を出していたのではないかとの推測もされており、両者ともに決戦にはせずに何とか和睦したかったのかもしれません。

しかしそんな家康の思いとは裏腹に、忠直隊が射撃を開始し、豊臣方もそれに呼応する形で射撃が行われたために合戦がスタートしてしまいました。こうなるともう誰も止めることはできません。忠直隊が豊臣軍と乱戦となり家康本体がこれを沈めようとするも逆に混乱を招いてしまいます。豊臣方の激しい抵抗を前に徳川軍も応戦しますが、豊臣方が力尽き敗走して大坂城へと帰っていきました。
大坂城を取り囲んだ徳川軍でしたが、家康は降伏を促す書状を秀頼に送るなど最後まで和睦の道を探っていたといいます。しかし、その思いもむなしくどこからともなく火が上がり、大坂城本丸や天守にも火の手が襲い掛かってしまいました。家康の孫で秀頼に嫁いでいた千姫と侍女が城外に脱出しましたが、その千姫による秀頼と淀殿の助命嘆願もむなしく徳川方がそれを拒絶し、秀頼と淀殿は自害。豊臣家が滅亡しました。助命嘆願を拒絶したのは秀忠とも、家康ともいわれています。どういった思いで、秀頼自害の報せを聞き届けたのでしょうか。
これで豊臣と徳川が争った大坂の陣が集結し、翌年1616年(元和2年)4月、家康はその生涯を閉じました。

まとめ

家康は豊臣家を恨んだり憎んだりしていたわけではないと思います。しかし、お互いの勢力が国を二分するほど大きくなりすぎて、自分たちだけではどうにもならない状態にまでなってしまったことが、この戦いの本質的な部分なのではないかと思わされます。
戦闘の細かい描写は省きましたが、その戦いがなぜ行われたのかを家康の足跡をたどることで見ることができました。お互いに一歩も譲ることができないヒリヒリするような状態での決断など、息をのむ場面が多いのが大坂の陣です。
いろいろなドラマや小説などもありますので、それらを見るときの参考にしていただけたら幸いです。

参考文献

  • 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
  • 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
  • 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
  • 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
  • 「現代語訳 家忠日記」 (中川三平編、令和元年5月1日、KTC中央出版)
  • 「真説 大坂の陣」 (中村雅夫、2005年1月21日、学習研究社)
  • 「ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼」 (「歴史読本」編集部編、2015年8月18日、KADOKAWA)
  • 「関ヶ原合戦と大坂の陣」 (笠谷和比古、2007年11月1日、吉川弘文館)
  • 「戦国のゲルニカ 「大坂夏の陣図屏風」読み解き」 (渡辺武、2015年11月30日、新日本出版社)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 週刊ビジュアル 戦国王 (ハーパーコリンズ・ジャパン)
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