攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

こちらもご覧ください!(広告掲載のご案内

秀吉亡き後、五大老五奉行による豊臣政権の運営に暗雲が立ち込め、関ヶ原の戦いになったことは有名です。しかし、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのでしょうか。テレビや雑誌などでは大きく取り上げられても、描かれていない細かいやり取りや心情などが入り混じっているのが関ヶ原の戦いです。
今回は家康が大坂を離れて上杉討伐に向かってから、関ヶ原の戦いを経て大阪に戻るまでの立ち位置を中心に関ヶ原の戦いを見てみましょう。

関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部抗争

関ヶ原の戦い前夜、武将たちは尾張に集結していた

1600年(慶長5年)9月15日、いまの岐阜県不破郡関ケ原町で徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の決戦が勃発。関ヶ原の戦いはわずか1日で東軍勝利という形で決着がついた戦いです。
関ヶ原の戦いといえば、戦国史に残る有名な合戦のひとつです。家康vs三成として描かれ、テレビドラマや映画、書籍など数えきれないほどあります。私たちが以前から知っている関ヶ原の戦いは、先にも示したような徳川家康と石田三成による天下分け目の決戦というイメージですが、近年の研究の成果によって通説が見直されています。
つまり、いまは秀吉死去後の豊臣政権における内部抗争としての認識が高まっているのです。これを聞いて、そんなの知ってるよという方もいるでしょうが、え? そうなの? という方もいるでしょう。
今回は、関ヶ原で起こった野戦の詳細は他に譲りますが、関ヶ原の戦いがなぜ起こったのか? どういう争いだったのか? その時の家康はどんな行動を起こしたのか? について見ていきます。

まずは上杉討伐の話から。1600年(慶長5年)6月16日、家康は大坂を出発。謀反の疑いがかけられた上杉景勝に再三上洛を要請するも拒否しているため、豊臣公儀のもとで上杉討伐に向かったのです。豊臣秀頼からの命を受けた公戦であり、家康が軍事指揮権をもって各大名に出陣要請をし、会津に向けて進軍しました。
一方で、家康不在の大坂では謹慎中だった石田三成が家康を討つために大谷吉継、安国寺恵瓊と共謀します。毛利輝元の同調も得て、さらには秀頼の命も受けて挙兵しました。この瞬間、上杉討伐は家康の公戦ではなくなり、豊臣秀頼-毛利輝元-石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊という構図が出来上がったのです。
さらには増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行によって「内府ちがひの条々」が出され、家康は豊臣公儀から排除されました。兵を動かす大義がなくなってしまった家康にとっては、ついてきた諸大名が離反する恐れもあり孤立した状態になってしまったのです。
有名な「小山評定」はこのとき起こったとされるわけですが、あったか否かは研究者のみならず歴史ファンの間でも論争となっています。

尾張対陣から、岐阜城の戦い、そして関ヶ原の決戦地へ

東軍が勝利を収めた関ヶ原の戦い決戦地には石碑が建てられている

小山評定があったかどうかはさておき、いずれにしても諸将は家康から離反することなく反転して西へ向かうことになりました。まずは清須城主・福島正則が8月始めに清須城に、次いで黒田長政、田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。

一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。
このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家康は井伊直政や本多忠勝を軍目付として派兵してはいますが、まだ江戸にいて動きを見せません。それは先にも述べた通り、豊臣公儀から外されて軍事指揮権を持っていないために東軍の諸将を指揮できなかったことと、諸将が離反する可能性、つまりは家康討伐の動きに転じる恐れがあったためと考えられます。
しかし、家康が動けるようにした出来事が勃発します。岐阜城の戦いです。

戦いの詳細は省きますが、どのような立ち位置の戦いだったのかを見ておきます。
清須城に集結した外様大名グループは家康の到着を待って進軍する予定でしたが、なかなか出馬しない家康にある意味で見切りをつけ、岐阜城を攻撃目標と定めて決行します。このとき主力となったのが福島正則と池田輝政で、現場の最高指揮官となっていました。岐阜城攻撃作戦は外様大名だけで編成されていたのです。8月23日に岐阜城を攻撃し、落城。犬山城では美濃の諸将が籠城していましたが、9月3日ごろに開城しました。
この美濃・尾張での一連の戦いについて家康は、福島正則や池田輝政だけでなく、犬山城を開城した美濃の諸将にも書状を送って感謝を述べています。諸将が離反する憂いがなくなったことがわかり、ほっとしたのかもしれません。これをきっかけに家康・秀忠は江戸を出立して西上します。

家康は9月13日には岐阜に、14日には赤坂に着陣しました。当初は大垣城の周囲に付城を築いて包囲する攻城戦が目的だったようですが、三成軍が大垣城を出て関ヶ原に着陣したため呼応するように家康軍も9月15日に関ヶ原に着陣します。
ここからは有名なエピソードの数々がありますが、他のコラムや書籍に任せます。朝方に始まった戦いは5時間ほどで決着がついたと言われています。東軍が勝利し、家康が権力を握った…というのが結末です。
とは言うものの、近年の研究の成果を確認してみると本当にそうだったのだろうか? と疑問が沸いてきました。最後に、関ヶ原の戦いが当時はどのように認識されていたのかを探ってみたいと思います。

関ヶ原の戦いの真の姿とは。そしてその後

関ヶ原の戦いは家康にとってはどのような戦いだったのだろうか

戦後処理としての課題は毛利輝元の処遇と大坂城の受け取りでした。毛利輝元は大坂城を退去せずに居座ったため、家康が正式に公儀に復帰することができていませんでした。家康からすれば敗軍の毛利輝元を追い出し、大坂城西の丸に自分が入ることが理想です。
毛利輝元の処遇について何度も協議を重ねた結果、9月25日に輝元の領国を安堵するという条件で大坂城を退去させ、西の丸を受け取ることに成功しました。大津で待機していた家康はやっとの思いで大坂城に入城しました。しかし、受け取ったのは家康ではなく、福島正則・黒田長政・藤堂高虎・浅野幸長・池田輝政の5人でした。この5人の諸将は豊臣の家臣で、つまり関ヶ原の戦いは豊臣家臣団での権力闘争であり、勝ったのは反三成派の諸将であるということを指しています。
西軍の主要メンバーのうち、大谷吉継は討ち死に、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は処刑、三奉行の一人・長束正家は自刃、増田長盛は高野山へ追放、前田玄以は家康と通じていたため本領安堵となりました。

家康が大坂城に入城すると本丸で秀頼と淀殿に戦勝報告をしました。家康は依然として秀頼政権を支える宿老という立場であることがよくわかるエピソードです。関ヶ原の戦いによって天下人になったという認識はフラットにしたほうが良いでしょう。
家康は秀頼の臣下という立場で諸大名の大幅な加増・減封・改易・転封などに辣腕を振るいましたが、封建的主従関係の基本ともいえる領地宛行状を発給することはできていません。やはり、諸大名は秀頼の臣下であり豊臣公儀が続いていたのです。
そのため、家康は徳川公儀を確立するために奔走し、ついには大坂の陣へと進んでいくことになります。次回は最終回、大坂の陣です。徳川家康が豊臣とどのように対峙したのかをみていきましょう。

まとめ

いかがだったでしょうか。戦いの布陣や戦闘の細かい描写、例えば小早川秀秋の動きなどはザクっと省いてしまいましたが、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのか、どんな心境だったのかなど、違った目線で関ヶ原の戦いを見てみました。これまでの関ヶ原の戦いのイメージと少し違ったかもしれません。
戦いそのものよりも、なぜその戦いが起こるに至ったのか、そしてその戦いの結末によってその後にどう影響したのかを見てみるのも面白いかと思います。
家康が公儀から外され、大義がなくなってしまった中、戦いが勃発してしまったというのが家康の本当の関ヶ原の戦いなのかもしれませんね。

参考文献

  • 歴史人(令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク)
  • 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社)
  • 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社)
  • 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社)
  • 「現代語訳 家忠日記」 (中川三平編、令和元年5月1日、KTC中央出版)
  • 白峯旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)」 別府大学紀要 第53号、2012年
  • 白峯旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その2)」 別府大学大学院紀要 第14号、2012年
  • 白峯旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その3)」 史学論叢 第42号、2012年
  • 「関ヶ原合戦と大坂の陣」 (笠谷和比古、2007年11月1日、吉川弘文館)
  • 週刊 日本の城 改訂版 (デアゴスティーニ・ジャパン)
  • 週刊ビジュアル 戦国王 (ハーパーコリンズ・ジャパン)
フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する