攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田玄以 の検索結果:

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…せた。家康としても、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行を自分の味方と計算していたにもかかわらず、実際には「内府ちがひの条々」に彼らの名前があったため、大いに動揺したに違いない。 とはいえ、家康も負けてはいない。西軍挙兵の一報を受け取って戦いを決意した後の7月24日から、一度江戸城へ入り、そしていよいよ出陣する9月1日までの間に、122通を超える手紙を出したとされている。家康はこの無数の手紙によって味方の状況を把握し、敵を切り崩して、関ヶ原の戦いの勝利を掴み取ったのである。関…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行によって「内府ちがひの条々」が出され、家康は豊臣公儀から排除されました。兵を動かす大義がなくなってしまった家康にとっては、ついてきた諸大名が離反する恐れもあり孤立した状態になってしまったのです。有名な「小山評定」はこのとき起こったとされるわけですが、あったか否かは研究者のみならず歴史ファンの間でも論争となっています。 尾張対陣から、岐阜城の戦い、そして関ヶ原の決戦地へ 東軍が勝利を収めた関ヶ原の戦い決戦地には石碑が建てられている 小山評定が…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼の後見人である利家が家康と和解したからである。 その利家が病死…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…ちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ!主戦と成ったのは、茶臼山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康軍に殺到したが、全員討ち死にし大阪城本丸炎上、秀頼、淀君討ち死に豊臣家二代にわたる栄華は、夢ときえた!! 石田三成の字が「光成」、前田玄以が「玄人」になってますね。 (なにか意味があるのかなあ) 天王寺駅でごはんを食べて、環状線に乗って大阪駅まで戻りました。 ぼくはそのまま帰宅しちゃいましたけど、体力的に余裕があれば大阪城に寄るのもいいと思います。

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