攻城団ブログ

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大岡忠相 の検索結果:

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二十)井伊直弼(二一)安藤信正と久世広周(二二)一橋慶喜と松平慶永(二三)慶喜の側近たち江戸時代のナンバー2それぞれ おわりに参考文献 ナンバー2の日本史 作者:榎本 秋 エムディエヌコーポレーション(MdN) Amazon

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…う。また、このふたりがあくまで1万石の大名にしかならなかったのは注目すべきポイントであろう。彼らは柳沢吉保や間部詮房のように広大な所領を与えられることはなかった。 同じく吉宗に寵愛された側近として、やはりテレビドラマなどで有名な大岡忠相(いわゆる「大岡越前」)がいる。彼もまた旗本から取り立てられて町奉行出身としては唯一、大名になったものの、1万石止まりだった。側近に権勢を振るわせないように幕府のあり方を変えようとした、その吉宗の強い意志がここに表れている、といっていいだろう。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

…に町奉行などを務めた大岡忠相(おおおか ただすけ)は有名だ。 ちなみに、吉宗は「正徳の治」時代の政策を転換していったわけだが、白石を嫌っていたわけではないらしい。むしろ、必要とあれば意見を求めるようなこともあったようで、吉宗という人の柔軟性を示すエピソードといえるだろう。それまでの江戸幕府のシステムで取りこぼされていた「才覚はあるが、身分が低いので重要な役職につけない」人材を政権に取り込むため、在職中だけ臨時にその身分を高める「足高の制」も吉宗の政策だった。これは優れた人材を…

7.寵臣の出世と末路

…ることはなかった。 大岡忠相 大岡忠相は直参の旗本である。もとは山田奉行(遠国奉行のひとつ。伊勢神宮の管理を担当した)に就いていたが、8代将軍・吉宗に抜擢されて町奉行に就任する。その後、吉宗の腹心として享保の改革をさまざまな面から支えた人物だ。町奉行は「都知事、警視総監、消防総監の役に加えて裁判までつかさどる」要職だが、忠相の家格からするとおかしいものではない。しかし、長年の功績を認められた忠相は晩年、旗本でありながら大名役である寺社奉行、その後には奏者番にまで任命されている…

4.出世と譜代大名

…将軍・吉宗の頃には、大岡忠相が長年の功績を評価され、旗本でありながら特例として寺社奉行に任命されている。 奏者番(そうじゃばん) 江戸城内における武家の関連儀礼を執行するための役職。20~30名という大所帯で、先述の通りこの中から4人が寺社奉行を兼ねていた。奏者番の一番の役目は、大名や旗本が将軍に謁見するときにある。ここで大名たちの官位や名前を読み上げ、さらに献上される太刀を披露し、将軍から下される品々を届けるのが奏者番だった。年始や各時季の節句、病気の見舞いなどさまざまな場…

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