攻城団ブログ

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対馬藩 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】柳川一件

対馬藩宗家と柳川家 付家老ではないが藩からの独立を画策した家老のケースを紹介しよう。通称「柳川一件」とされるこの事件は、対馬藩宗家の家老で、対馬という島の「外」に所領を持っていた柳川家の独立画策が、外交問題にさえ発展するような大問題となったものであり、なかなかに興味深い。 柳川家がどこを発祥とするかはハッキリしない。対馬の領主である宗家に仕えるようになり、豊臣秀吉が九州侵攻を行い、宗家もこれに臣従する中で、豊臣政権との交渉などで功があり、柳川調信(やながわ しげのぶ)の存在感…

【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

…られることになった。対馬藩宗氏は日朝の境界という性質を維持したまま、江戸時代へ入ったのである。 その後の宗氏 ただ、江戸時代初期にはしばしば見られたことだが、宗家の内部でも藩主と重臣の対立が起きた。この主役を演じたのは、義智の腹心として秀吉・家康との交渉から朝鮮との外交に至るまで獅子奮迅の活躍をした柳川調信の孫、柳川調興だ。 調興は非常な才人であり、自らより1歳下の藩主・宗義成(義智の子)を侮ることはなはだしく、その命令に反し江戸や駿府に3年居座るという暴挙に出たほどだ。この…

【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

…(寛永8年)【舞台】対馬藩【辣主】宗義成【主要人物】柳川調興、宗義成 朝鮮との和平交渉に関わる対馬藩内の対立 この事件は、別名「国書改竄事件」とも呼ばれる。日朝関係において代々重要な役割を果たしてきた対馬藩で、国書の改竄などの不正をめぐり藩主と家臣が対立したことから、そのような別名で呼ばれているのだ。 対馬藩の領土は農業には向いておらず、昔から朝鮮との貿易によって生計を立ててきた。ところが豊臣秀吉の朝鮮出兵以降、日本と朝鮮の関係は破綻。朝鮮出兵は1598年(慶長3年)の秀吉の…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…た、朝鮮外交を担った対馬藩や、アイヌを統括しロシアと接することになる松前藩は、それぞれ3年ごと、6年ごとに1年、江戸にいればよかった。領地で朝鮮や北方外交に注力することのほうが重要とされたからである。 江戸時代後期の諸改革や幕末の混乱は、この参勤交代制度にも影響を与えている。徳川吉宗の「享保の改革」では1722年(享保7年)、在府半年・在国1年半と江戸にいなければいけない期間が短縮されている(のちに元へ戻されている)し、幕末の1862年(文久2年)には「3年に1年または100…

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