島原藩 の検索結果:
…たあと、最後には肥前島原藩7万石になった。能見松平の本家は千石に満たない旗本に終わったが、庶流が松平忠輝の家老を務めて2万石をもらい、忠輝の改易後も大名として残った。最後には豊後杵築藩3万2千石になっている。 長沢松平は武蔵深谷に1万石を与えられたものの、家康の子の忠輝を養子として受け入れて60万石となったところ、その忠輝が改易処分を受ける。復興は最終的に八代将軍吉宗の時に許され、300石相当の土地を与えられた。 大給松平は松平一族の中でも大きな兵力を持っており、家康にも重視…
…反乱。原因をつくった島原藩主・松倉勝家は斬首(大名が切腹ではなく斬首の処分を受けた唯一の例)。寺沢堅高も領地を没収され、のちに精神異常から自害して寺沢家は断絶。鎖国のはじまり 江戸時代 1651年(慶安4年) 由井正雪の乱(慶安の変) 軍学者・由比正雪が幕府に対して起こした反乱。武断政治によって大量に発生した浪人問題が背景にある。この後、幕府の基本政策は文治政治へと移行 江戸時代 1652年(慶安5年) 承応の変(戸次庄左衛門の乱) 浪人の別木庄左衛門(べっき しょうざえもん…
…タンを名乗れば幕府が島原藩に注目し、無理な統治をとがめてくれるはず」という策略があったのではないか、という見方さえある。 ともあれ、農民たちが代官を殺害したことをきっかけに結成されたこの一揆は、天草四郎(あまくさ しろう=益田時貞(ますだ ときさだ))という少年をリーダーに祭り上げてさらに拡大していく。寺社を次々と焼き、村々を巻き込みながら島原全土へと広がっていったのである。 この情報はもちろん幕府にも伝わり、上使(じょうし)として板倉重昌(いたくら しげまさ)や松平信綱(ま…
…城(島原市。江戸期の島原藩政庁とは別。浜の城)に入ることになったからだ。それでも、もし戦わなければならない時には「弾を込めずに銃を撃とう」と申し合わせた、という。 しかし、その申し合わせが行われることはなかった。有馬・島津連合軍が龍造寺の大軍を打ち破って勝利したからだ。その後、天正14年から始まった豊臣秀吉の九州攻めに際しては有馬氏らとともに秀吉に臣従し、息子の大村喜前を豊臣軍に参加させている。これによって2万7900石あまりの所領を安堵された。だが、純忠自身は豊臣勢に九州が…