攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川秀忠 の検索結果:

大坂の陣、真田幸村の三段突撃

…の戦い」で父とともに徳川秀忠の軍勢を翻弄したことから、戦後は九度山に幽閉されていた。それが幕府と豊臣家の関係が険悪化すると脱出、浪人として大坂城に身を寄せ、「大坂の陣」に参加することになったのである。 まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで見せた。このときまで幸村はほとんど無名の存在であり、家康は「大坂城に入ったのは幸村で、父親の昌幸はすでに死んでいる」という報告を聞いて安心したという…

【戦国合戦こぼれ話】家康が苦戦したわけは第二次上田合戦にあり!?

…後継者と目されていた徳川秀忠の率いる部隊で、中山道を進んでやはり近畿へ向かうことになっていた。この秀忠隊は徳川家の譜代家臣が多く参加しており、「徳川本隊」とも言うべき軍勢であった。 ――にもかかわらず、秀忠隊は関ヶ原での決戦に参加していない。間に合わなかったのだ。その主原因は、西軍側について信濃の上田城にこもっていた真田昌幸・幸村の親子に苦戦し、時間の空費をしたことにあるとされる。これに先立つ1585年(天正13年)の「第一次上田合戦」と区別するため、この戦いは「第二次上田合…

【戦国を彩る名軍師たち】いくさを取り仕切ることができなかった真田幸村

…てこもった上田城は、徳川秀忠が率いる徳川本隊の攻撃を受け止め、大いに苦しめた。秀忠たちが関ヶ原本戦に参加できなかったのはそのせいと言われるほどの活躍である。 残念ながらこの戦いでは幸村たちが与した西軍が敗れ、戦後に家康の手によって江戸幕府が開かれた。幸村は九度山に幽閉されたが、十数年後に豊臣家と江戸幕府の関係が悪化すると、脱出。豊臣方について二度の「大坂の陣」に参加した。 最初の戦いである「大坂冬の陣」において、幸村は大坂城に「真田丸」と呼ばれる特設の砦を作ると、ここに攻めか…

徳川美術館で「合戦図~もののふたちの勇姿を描く~」のギャラリートークを聞いてきました

…ているので、幕府側(徳川秀忠)が描かせた可能性もあり 現時点でまだ注文者は確定していないことを踏まえて、薄田学芸員がおっしゃっていたのは、 この絵(模本)が徳川方にあったことは無視できない(御用絵師集団・狩野派の絵師に貸し出された記録もある) 大坂城が目立つように描かれているが、敵の館を中心に描く構図はある意味では合戦図の王道である(「保元合戦図屛風」でも白河殿がメインに描かれている) 先のとおり、敵方の活躍を描くことも珍しいことではない ということを考えると幕府が描かせた可…

アゲハチョウの家紋

…利隆は榊原康政の娘で徳川秀忠の養女となった鶴姫を正室に迎えています。 次男忠継は、備前28万石を与えられ、岡山藩主となった(じっさいには利隆が藩主として執政したそうです)。さらに3男忠雄は淡路一国6万3千石を与えられ洲本藩主となっています。 輝政の死後は播磨の遺領は利隆が相続し、10万石分だけ弟忠継に分与されました。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となったのですが、ここから備前岡山池田氏が生まれるのですが、備前岡山池田氏はまたちがう家紋なんですね。 この家紋は「備前蝶…

【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

…信頼したのは、両親(徳川秀忠と江)が自分ではなく弟の国松(徳川忠長)を溺愛し、ないがしろにされたからといわれてます。『春日局略譜』によれば、家光は自害を考えたほどだったそうで、それを思いとどまらせたのが春日局だったと。(じつは家光の実母が彼女だという説もありますけどね) 家光は春日局に多くのものを与えていますが、そのうちのひとつがこの「百椿図屏風」です。 麟祥院パンフレットより ほかにも聴秋閣を家光から賜っていますね。家光が上洛する際に二条城内に建てられた「三笠閣」が、春日局…

名古屋城本丸御殿を見学してきました

…6年(寛永3年)には徳川秀忠が、1634年(寛永11年)には徳川家光がここに宿泊しています。この家光の上洛にあわせて本丸御殿は拡張・改修されました。そのときに将軍宿殿機能としては不要になった中奥・奥部分を解体撤去し、代わりに増築されたのが今回完成した「上洛殿」(黒木書院・湯殿書院等も)です。 ではそれぞれの部屋を写真で紹介しますね。 上洛殿 別名「御成書院」とも呼ばれる、本丸御殿のなかでもっとも格式の高い空間です。江戸時代には「御書院」や「御白書院(おしろしょいん)」と呼ばれ…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…昌幸と信繁は上田城で徳川秀忠率いる3万8000の軍勢を撃退しました。これもきっと痛快に描かれるんでしょうね。 なお、これに先立って真田家はふたつにわかれます。信幸は妻が本多忠勝の娘であるため東軍につくことになりますが、この家族会議「犬伏の別れ」のシーンも楽しみです。 蟄居生活 西軍についた信繁と昌幸は、高野山のふもと九度山で蟄居させられます。 家康は死罪にしたかったようですが、信幸と忠勝の取り成しで九度山への配流にとどめてもらいました。このやり取りも「沼田裁定」のときみたいな…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…慶長10年) 39 徳川秀忠が二代将軍となる。 1606年(慶長11年) 40 1607年(慶長12年) 41 1608年(慶長13年) 42 1609年(慶長14年) 43 1610年(慶長15年) 44 1611年(慶長16年) 45 6月4日、昌幸が九度山で死去。 1612年(慶長17年) 46 信繁、出家して好白と名乗る。次男、守信(大八)が誕生 1613年(慶長18年) 47 1614年(慶長19年) 48 信繁、豊臣秀頼の依頼に応じ10月9日、九度山を脱出し、翌日…

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