攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川義直 の検索結果:

【家康の謎】しかみ像っていつ描かれたの?

…ある。これがのちに「徳川義直(家康の子で尾張藩祖)が描かせた」ものになり、三方ヶ原云々という話も入ってきて、ついに先ほど紹介したようなエピソードが形成された、と推測されている。 なお、脱糞のエピソードも後世の創作であろうと考えられている。こちらについては、『改正三河後風土記』という江戸末期の史料に、三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦い(武田軍から二俣城を守るための戦い)での出来事として似たような話が収録されており、これを元に作られたのではないか、という。 blog.kojoda…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…臣団の多くは尾張藩の徳川義直へ引き継がれた。 藤井松平については、家康と同じ時代の松平信一(まつだいら のぶかず)が武将として活躍し、信長から桐紋の羽織を与えられて家紋も桐にしたとか、信長の名をもらって「信一」と名乗ったともいう。慶長年間に常陸土浦藩3万5千石を与えられる。この家系は老中・松平信之(まつだいら のぶゆき)も出して下総古河藩9万石まで出世したが、信之の嫡男が発狂して所領没収となる。家としては信吉の弟が備中庭瀬藩3万石を与えられて存続し、出羽国上山藩3万石として残…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…早世したため、九男・徳川義直がわずか8歳で清須城主となります。実際に清須城に入城したのは1609年(慶長14年)の正月のことです。徳川家康は関ヶ原の戦いののち、公儀普請(天下普請)によって各地に大城郭を築城または従来の城の大改修を行っていきます。これはいわゆる大坂包囲網を敷くためと考えられています。その最終的な城の一つとして、1610年(慶長15年)に家康が名古屋城の築城を諸大名に命じました。京都防衛と西国大名の抑えとして東海道・美濃路の追分に位置する名古屋に城を築いたのです…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

… 第四章 初代城主・徳川義直と本丸御殿 最後の部分が徳川家康の9男で尾張藩初代藩主の徳川義直と、本丸御殿についての展示です。 「編年大略(へんねんたいりゃく)」という尾張徳川家の歴史をまとめた書物から、義直と浅野幸長の娘が本丸御殿で結婚式をあげた部分を紹介しています。 またこちらは最近購入された資料で今回初公開ということでしたが、義直の弟で和歌山藩主になった徳川頼宣の書状です。 内容としては、伏見の「こやば」で便宜を図ってくれたことについて弟が兄にお礼を伝えているものです。現…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…分を表すものとして、徳川義直(家康の子)の居城である名古屋城普請を巡るエピソードがある。この工事を命じられた福島正則が「大御所の息子の城まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼすと、これを聞いた加藤清正が「いやなら国に帰って戦準備をしろ」と言った、という。清正にも少なからず不満はあったろうが、しかし拒否することは幕府と戦うことに他ならなかったのである。 江戸中期になると御手伝普請の性質が変わる。「ある地域の大名をまとめて動員する」という形から、「この家とこの家を動員する」…

名古屋城本丸御殿を見学してきました

…徳川家康の9男である徳川義直の住居として建てられた御殿です。 「大坂の陣」直後の1615年(慶長20年)4月には、この本丸御殿で義直と浅野幸長の娘・春姫との婚儀がとりおこなわれています。当初は本丸御殿を住居としてして義直ですが、1620年(元和6年)には二の丸御殿に引っ越したため、以後の本丸御殿は将軍が上洛の際に使用する宿舎となりました。 じっさい1626年(寛永3年)には徳川秀忠が、1634年(寛永11年)には徳川家光がここに宿泊しています。この家光の上洛にあわせて本丸御殿…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する