惣構 の検索結果:
…築城におけるいわゆる惣構の構築を目指したものなのかもしれません。だとすると、この時点で五稜郭にはすでに軍事的機能は求められておらず、江戸時代末期の城郭のほとんどと同じように、政庁機能あるいはそのシンボルとしての在り方がその主目的であった可能性を考慮してもよいのかもしれません。稜堡式城郭とは、数百年の戦いのなかで磨き上げられてきた戦闘特化・砲戦特化の城郭構造ですが、もしその終着点のひとつとして「戦闘と切り離された姿」があったのだとしたら……あるいはそれこそが「五稜郭の五稜郭たる…
…城下町全体を取り囲む惣構えを備えていた。『日本史』で知られるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事なる城」と書き残していることから、結構な規模であったらしい。 村重は信長に忠実で、彼の近畿支配構想において重要な人物だった。そのため、村重の謀反を聞いた信長は最初、その報せを信じなかったといわれている。なぜ謀反に踏み切ったのか、その理由ははっきりとはわかっていない。しかし、彼が信長の敵である石山本願寺に内応していたことは明らかとなっているため、これが原因だった、と…
…、城下町全体を囲む「惣構」の土塁らしきものが描かれた絵図も見つかっている。この城は、その美しさに違わぬ堅牢さを発揮しただろう――もし、戦う機会が来たのならば。 実際のところ、その時は結局こなかったのである。安土城は織田政権が天下を統一するより早く、失われてしまった。1582年(天正10年)、信長は本能寺の変で倒れ、それからあまり時をおかずして安土城も炎上してしまった。信長の息子・信雄が謀反人と戦っている中でうっかり火がついてしまった、いいや信雄は自ら天主に火をかけたのだ、実の…
…全体を大きく取り囲む惣構の堀によって難攻不落の城が作り上げられた。これに加えて、「象徴の城」としても大坂城はすさまじかった。地下も含めて七層(諸説あり)になる天守閣は外装にも内装にも金銀をふんだんに使い、かつ黒漆で外壁を漆黒に染めたとされる。黒と金に輝く大坂城は、現代の白亜の城とはまた違う威圧感を放っていたのだろう――九州の大名、大友宗麟は大坂城について「天下無双の城」と語っている。 秀吉の死後はその跡継ぎである秀頼が入り、ここを居城とする。しかし関ヶ原の戦いで天下の実権は徳…
…総構え(そうがまえ、惣構えとも書く)と呼ぶことがあります。しかし、現在は都市開発などによって中堀や外堀が埋められ、内堀だけが残っている城が大半です。 名古屋城の内堀。現存三重櫓である西北隅櫓と石垣、水堀が画になる 堀の仕掛け 水堀は、堀の幅が広ければ広いほど防御能力が高くなっていきます。つまり堀幅が広くなると渡っていくことが困難になっていくからです。重い鎧などを着た武士は堀を泳いで渡ることは簡単にはできませんでした。重いために沈んでしまうこともありました。堀の中で動きが鈍くな…
…たり、城下町を置いて惣構(そうがまえ)を築いたりして、防御力を高めていました。 要は本丸までにいろんな障害物を置いたり、人工的な凸凹を造成したりして、なかなか辿りつけないようにしたわけです。とくに当時はお寺が非常時における小規模な砦として利用されていたので、お寺もたくさんありました。 とはいえ防御力が低いことは変わらないので、真田信繁は徳川家康が南側から攻めてくることを見越して、ここに「真田丸」という砦をわずか1ヶ月ほどで築きました。 余談ですが真田丸のことを「偃月城」ともい…
…かりにくいですね。 惣構えというと、小田原城や江戸城が有名ですが、じっさいには江戸時代には多くの城で見られた城郭構造です。 ちなみに小田原城の総構えは2里半(約9km)におよぶ空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものでした。 大坂城の外郭も周囲2里の長さで、「大坂冬の陣」で真田幸村が築いた出丸(通称「真田丸」)は外郭南門の外側に築かれたものです。 江戸城の外郭は史上最大の規模で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街のすべてを囲んでいました。 kojodan.jp 豊臣秀吉が築い…