成瀬家 の検索結果:
…二家である。 まず、成瀬家は藤原氏の流れを汲む一族で、放浪の末に三河に定着し、早い時期から松平(徳川)氏に仕えた。付家老としての初代である成瀬正成(なるせ まさなり)は家康の小姓から出発し、やがて側近として駿府の大御所政治で重要な役割を占めるようになる。家康の九男である名古屋藩主(のちに尾張藩主)義直の傅役にもついていたが、この頃には家康の信頼厚い平岩親吉(ひらいわ ちかよし)が義直の付家老を務めていた。その後、親吉が病没したために同僚の竹腰正信(たけのこし まさのぶ)ととも…
…ったのかもしれない。忠勝の後を継いだ正則の子・正利は旗本として3千石を与えられ、彼が後継者なく死んで家が断絶しても、正則のひ孫にあたる福島正勝が1681年(天和元年)に旗本に取り立てられて再興を遂げたのである。 また、これとは別に徳川御三家のひとつ尾張藩では、正則がその活躍の割に不遇の最期を遂げたことを残念に思い、わざわざ子孫を探して付家老の成瀬家に仕えさせた、という。直接に尾張藩士としなかったのは、やはり正則は罪によって改易された大名なので、幕府をはばかったのだ、と伝わる。
…しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではないと言えますが、先にも述べた通り軍事力を統制することや幕府への反逆を抑えるという目的であったということですね。 まとめ 元和元年(1615年)に出された一国一城令によって城の数は激減し、戦の世が終わりを告げました。この法令によって破却された城は多数ありますが、今も城跡として立派に残っているので、このときに”廃城”となった城跡を巡るのも楽しいでし…
…家、青山家、阿部家、成瀬家、渡辺家、植村家などがこれに含まれる。 山中譜代 松平家が居城を安祥から岡崎に移すまでの間に服属した譜代大名。1524年(大永4年)、清康は一族の松平信貞による反乱を抑えるため、居城を安祥から岡崎に移している。このとき服属した信貞の家臣たちも、山中譜代に含まれている。 岡崎譜代 清康が居城を岡崎に移してから、9代目の家康が遠江を平定し、浜松に居城を移すまでの間に服属した譜代大名。清康が東三河を平定した際に服属した牧野家、戸田家、奥平家、菅沼家、設楽家…
…古とされる犬山城主・成瀬家が描かせた「成瀬家本」(犬山城白帝文庫所蔵)以外にも、大阪城天守閣蔵の「大阪城本」や徳川美術館蔵の「徳川家本」など多数あり 「成瀬家本」では成瀬正一、正成親子の活躍を特徴的に描いており、また豊田市郷土資料館蔵の「豊田市本」では渡辺守綱の活躍を強調するなど、多くの合戦図屏風は注文者が特定の人物(先祖など)をクローズアップして、武功を称える(顕彰する)ために描かれた 一方で、幕府が描かせた「長篠合戦図屛風」の下絵には馬防柵に迫る武田軍や馬場信春の活躍を描…
…う話でしたが、長らく成瀬家個人所有の城だったため調査できなかったのでしょう。天守が国宝ならそれでいいじゃない?と気にしていなかったのかもしれません。ところが松本市などとともに「日本の近世城郭の天守群」としてユネスコ世界遺産を目指そうとなった。それでは不都合になってきた。だから急いで発掘調査したという事情があったように拝聴しました。 コーディネーターの赤塚先生は、考古学者らしい視点と研究保護NPOの理事らしいお話で締めくくってくださいました。 会場『フロイデ』の近くに田中天神の…