攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

村上義清 の検索結果:

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…(すわ よりしげ)・村上義清(むらかみ よしきよ)が攻めてきて、幸隆を含めた真田氏・海野氏は小県郡から追われてしまう。彼は上野に逃れ、その後に信虎を追放して実権を握った武田信玄の配下となる。この頃の信玄は諏訪頼重を滅ぼし、さらに村上義清と戦うも1548年(天文17年)の「上田原(うえだはら)の戦い」で敗れるなど、信濃方面に軍を進めていた。 そのため、信玄がこの方面に詳しい人材を求める中で、幸隆が取り立てられることになる。そして、彼はこの時期に苦戦が目立つ信玄を支え、大きな役割…

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

…濃(現在の長野県)の村上義清と戦っていた。そこで1550年(天文19年)に村上側の戸石城を攻めていたのだが、この城は東西が崖に囲まれていて攻めづらく、1カ月戦っても落ちなかったために撤退することになった。撤退戦こそが古来最も難しい戦いと言われているとおり、ここで信玄は散々に敗れてしまう。 しかし、ここで立ち上がったものがいる。もちろん、勘助だ。彼は小勢を率いて出撃すると村上軍を引きつけて誘導し、その隙に他の武田軍の態勢を立て直させた。さらに本隊が攻撃を仕掛けている間にそれぞれ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

…者であった葛尾城主の村上義清(むらかみ よしきよ)がこれを奪い取る。武田信玄の信濃侵攻において強大な壁となり、「生涯にわずか二度」という信玄の敗北の相手になったのが彼、義清であった。そして、そのうちの一度、「砥石崩れ」と呼ばれる戦いの舞台こそが、この砥石城だったのだ。砥石城自体はやがて武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる。 1548年(天文17年)に第一の敗北である「上田原の戦い」で義清に敗れた信玄はその2年後、義清が別の敵と戦っ…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…その過程では北信濃の村上義清(むらかみ よしきよ)相手に二度の大敗を喫するという苦い経験もあったが、最終的にはこれを打ち破り、越後方面へ逃走させることに成功している。 信濃制圧後の信玄の振る舞いはまさに政戦両略をわきまえた大大名のものである。北には宿敵・上杉謙信と五度にわたる川中島の戦いを繰り広げ、謙信の信濃進出を防ぐ。南では北条氏康・今川義元といった名だたる大大名たちと丁々発止のやり取りを繰り広げた末、甲相駿三国同盟を結んで安全を確保した。そうかと思いきや、義元が織田信長に…

【10大戦国大名の実力】上杉家③――関東出兵の目的は?

…あった北信濃の領主・村上義清らが信玄に追われて越後へ逃げ込んだことを発端とするもので、北信濃の支配権をめぐって戦いが繰り返された。そのほとんどは小競り合いやにらみ合いに終始したが、「八幡原の戦い」と呼ばれる第四次合戦だけは例外的に激しい戦いとなり、謙信と信玄が一騎打ちしたという伝説も生まれて有名になっている。通常、「川中島の戦い」と言う際は、この第四次合戦を示す。 一方の後者は北条家との関東をめぐる勢力争いに敗れた山内上杉家当主・上杉憲政(うえすぎ のりまさ)がやはり謙信を頼…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…城(長野県坂城町)の村上義清がいて、信玄と何度も争った。この際、長棟の子・長時(1514―83)は義清の頼みを受けて援軍を出し、信玄と戦っている。 というのも、長時は元より信虎・信玄の親子と戦ってきていたからだ。一度、頼重が武田氏についた時などはその居城を攻め、救援にやってきた武田軍とも戦って頼重を降伏させた、ということもあった(『寛政重修諸家譜』)。信濃守護として、そしてなによりも武田氏に劣らぬ名門として、信濃で勝手はさせぬ、という強いプライドがあったのだろう。長時自身も勇…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…。また、信玄は信濃の村上義清相手に大変な苦戦をし、天文19年に小県の砥石城(上田市)を攻めた際には「砥石崩れ」と呼ばれるような大敗を喫しているのだが、敗戦の翌年には幸隆がその砥石城をあっさりと乗っ取っている(『高白斎記』)。 信玄は幸隆の活躍を大いに認め、小県に2200貫文(石高に換算すると5400石余とされる)の所領を与えた。そのなかには真田郷も含まれており、幸隆は11年の月日を経てついに父祖の地を取り戻した、ということになる。幸隆の謀略は1561年(永禄4年)の上野岩櫃城…

斎藤道三と高政の関係が怪しくなっていた頃、信濃は武田信玄の手に落ちようとしていた

…(かつらおじょう)の村上義清だ。信玄はこの義清相手に、1548年(天文17年)の「上田原の戦い」と1550年(天文19年)の砥石城を巡る攻防戦(いわゆる「砥石崩れ」)の二度にわたって手痛い敗北を喫している。「麒麟がくる」では帰蝶が織田信長のもとに輿入れし、また今川軍の攻撃が織田と尾張、さらには美濃までも大いに揺らしていた頃のことだ。 信玄は諦めなかった。1552年(天文21年)までには義清ら北信地域の敵対勢力を追い出すことに成功したのである。一方、南信地域も放っておいたわけで…

【戦国合戦こぼれ話】川中島の戦い―大局的には信玄が勝利

…ったのは北信濃の雄・村上義清であったが、結局は敗れて領地を失い、越後の上杉謙信を頼ることになる。義清に助けを求められた謙信は、自国の防衛のためにも信濃の情勢を安定させようと、12年にわたって5度出兵することになった。この戦いが主に川中島の周辺で行われたので、「川中島の戦い」と総称されるようになったのである。 しかし、これらの戦いは基本的には小競り合いやにらみ合いに終始し、決定的な激突にはほとんどつながらなかった。決戦は双方に大きな損害が出るので、攻めるほうとしては「攻めた」と…

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