攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松代藩 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…開塾直後に実施された松代藩領生萱村(いきがやむら)での砲術試演にも参加して5回中2回の試射を務めているほか、松前藩から象山に依頼された大砲鋳造の際には鋳造掛(がかり)を自ら志願しています。 なおこの依頼はのちに松前藩側が一方的にキャンセル(藩の公式記録にこれらに関するものが遺っていないあたり、江戸藩邸の独断依頼だったのかもしれません)。重太は師に対する藩の不義理に怒り、当時直属の上司トップである江戸留守居役・田崎与兵衛(たさき よへえ)に「義理を弁へぬは人に無之(義理をわきま…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

3.戦国大名から外様大名へ

…を初代とする真田家(松代藩)は徳川家との縁の深さからか譜代として扱われ、養子に入った幸貫(松平定信の子)などは老中も務めている。また、豊臣恩顧の大名として関ヶ原の戦いでは西軍につきながら東軍に寝返った中のひとりである脇坂安治(伊予大洲藩→信濃飯田藩)などは、譜代の堀田家より養子を迎えてからは譜代となり、老中も何人か輩出した。 親藩譜代外様という関係性が必ずしも固定のものではなく、その中でも将軍との親密さで動きがあった。そこに大名コントロールの妙があったのだ。 大名の格付け③官…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…万石を治めた真田氏の松代藩の記述などもあり、歴史好きとしてはなかなかに楽しめる内容です。 その他、長野盆地の自然や風土、民俗などをテーマにした常設展や時期ごとに替わる特別展もあり、プラネタリウムも人気を集めているようです。 「武田上杉武将列伝」など大河ドラマに関連した特別企画展が行われることが多いのでチェックしてみましょう。 所在地 長野県長野市小島田町1384-1(※博物館は小島田町1414) アクセス 車の場合、上信越自動車道 長野ICから3分。電車の場合、JR・長野電鉄…

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