攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松平信綱 の検索結果:

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二十)井伊直弼(二一)安藤信正と久世広周(二二)一橋慶喜と松平慶永(二三)慶喜の側近たち江戸時代のナンバー2それぞれ おわりに参考文献…

【クーデターで読み解く日本史】宗教的反抗の背後に隠された真実とは?――島原の乱

…たくら しげまさ)や松平信綱(まつだいら のぶつな)を派遣して鎮圧にあたらせた。戦況を鑑みて原城に立てこもった一揆勢を簡単に鎮静化できると考えられていたが、必死の抵抗により幕府方は苦戦を強いられ、板倉重昌が戦死してしまうほど激しい戦いとなった。また、攻城側はなかなか連携がとれず、それも苦戦の原因になったようだ。 結局、本来は戦後処理を担当するはずだった松平信綱が急挙指揮をとり、一揆の鎮圧に当たった。能吏である彼は力押しが通じないことを悟り、様々な作戦を実行に移していく。まず、…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

…重臣である酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋といった人々が政治を主導していくことになった。それまでは十分に経験を積んだ人間が将軍になる、あるいは先代将軍が大御所としてまだ未熟な将軍を導くような形で、老中や若年寄といった家臣団はその補佐、あるいは手足となって働く存在であった。それが、家綱以降(正しくは、家光時代の終盤)からは重臣たちがある種の合議制を形成するようになる。現代風にいえば、ワンマン社長の時代が過ぎて、専務や常務といった役員たちも大きな発言力を持つようになった、というところ…

【江戸時代のお家騒動】庄内藩・酒井忠重のお家乗っ取り 暴君の野望恐るべし!

…当の舅にあたる老中の松平信綱に忠重のことを密かに訴え、彼と忠勝をどうにか引き離し、藩の情勢を改善したいと協力を求めた。 ところが、この頃に高力の味方であった毛利長兵衛という男が、忠重に捕らえられてしまった。忠重は毛利を脅迫し、自分の腹心となることを強要。高力のことを忠勝に讒訴するよう命じたのである。毛利はこれに従い、「高力らは信綱と組んで忠勝を早々に隠居させようとしている」などと、全くのデタラメを忠勝に訴えた。忠勝はこれに激怒し、1646年(正保3年)に高力とその一族を酒井家…

原城 島原の乱の中心地

… 追討使である老中・松平信綱は1月4日に到着。本来は戦後処理が主な任務であったが、彼が指揮を取ることとなった。信綱は九州の諸大名を動員した12万5千あまりの大軍、オランダ船による砲撃により戦意を奪い、時間をかけて城の食糧を削っていった。そして、2月28、29日にかけて総攻撃を行い、城兵のほとんどを討ち、一揆を鎮圧している。「島原の乱」の後、幕府は松倉勝家を改易処分とした。乱が終わってもキリスト教への弾圧は変わらない。むしろ、一揆参加者の思いとは裏腹に、1639年(寛永16年)…

4.出世と譜代大名

…・家光が、堀田正盛、松平信綱、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次、三浦正次の6人に、合議によって幕政に参加するよう命じたことからできた役職だとされている。この6人は六人衆と呼ばれ、家光の側近だった。家光は老中に準ずる立場に自分の側近を置いておこうと考えたようだ。その後、若年寄が役職としてつくられ、2名から6名ほどが任命されて幕政に携わった。若年寄に任命された譜代大名の平均年齢は、老中のそれより若いという。若年寄を退職した後、老中に任じられた者は多く、譜代大名の出世の階段として大きく…

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