梶原景時の変 の検索結果:
…00年(正治2年) 梶原景時の変 源頼朝の死後、腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件 鎌倉時代 1201年(建仁元年) 建仁の乱(城長茂の乱) 梶原景時の庇護を受けていた城長茂(じょう ながもち)ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱 鎌倉時代 1203年(建仁2年) 比企能員の変 2代将軍・源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事件 鎌倉時代 1203年(建仁3年)〜1204…
…れます。 具体的には梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱、牧氏の変……と変や乱が繰り返され、そのたびに有力御家人や将軍候補が表舞台から退けられていきました。まさに生き残りゲームの様相を呈した中で、最後の勝者となったのが北条義時でした。でもそれは綱渡りの勝利であり、誰が勝ってもおかしくない状況でした。ちなみに「変」とか「乱」といった呼称も勝った側の正当性を誇示するためにつけてるだけで、大義がどちらにあったかはまた別の話です。 脱線のようでいて本質っぽい話も ついついいろんな…
…ちの挙兵を伝えたのは梶原景時の変や牧氏事件で北条氏に協力した三浦義村(みうら よしむら)だ。彼は和田氏と同じ三浦一族で、はじめ和田氏に味方するという文書まで書いたが、後になって北条氏側につき、義時に義盛らの挙兵について密告したのである。 やがて鎌倉を舞台に和田勢と幕府勢が激突。2日間にわたる激しい戦いの末に、実朝の発した「義盛を討伐させよ」という命令がターニングポイントになって和田勢は劣勢に追い込まれ、ついに打ち破られたのである。和田氏の滅亡後、侍所別当の職は義時のものになり…
1200年(正治2年) ○鎌倉幕府 ×梶原景時 征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなったのは1199年(正治元年)のことである。源氏の家督と将軍の座を継いだのは嫡男の頼家(よりいえ)だったが、彼はまだ若冠18歳で騎慢な性格が目立つ部分があり、また妻の実家である比企氏(ひきし)ばかりを重用するなど、その統治者としての力量には疑問符がついた。 そこで頼朝の妻・政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)をはじめとする老臣たちは裁判で判決を下す権限を頼家から取り上げ、重…