攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

森忠政 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…藩の始まりである。 森忠政にはふたりの息子がいたが、ふたりとも早世していた。そこで、忠政の死後は養子の長継が藩主となる。その長継も隠居すると、長継の長男・忠継がすでに死去していたため、次男の長武が跡を継いだ。ただ、長武は期限付きの在任、中継ぎピッチャーのような存在だった。忠継の子(つまり、長武の甥)である長成が大きくなってきちんと藩主を務められるようになるまで、という条件で長武は3代藩主の座についたのである。 長武は家臣や、前藩主で隠居の身の長継の干渉を良しとせず、側近による…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…得たのか、大正から昭和にかけて書かれた矢田挿雲の小説『太閤記』では、光秀の娘・たま(ガラシャ)と蘭丸が結婚するはずだったが叶わず、恨んだ蘭丸が信長に讒言して両者の関係が悪化したのが本能寺の変につながったとしたという)。 どちらも事実とは思い難いが、おもしろい話なので触れてみた。その後、織田政権が分裂する中で長可は秀吉についたが、小牧・長久手の戦いで討ち死にしている。それでも森家の兄弟で生き残った六番目の息子である森忠政は美作国津山藩主となり、江戸時代に入ることになるのだった。

【お城の基礎講座】85. 三大平山城(さんだいひらやまじろ)

…原の戦いの戦功により森忠政が入城し、城を完成させました。津山盆地の中央にある比高50mの津山全体に総石垣でもって、ひな壇のように三段や四段重ねに石垣を築いて一二三段と呼ばれる平山城です。残念ながら建物などは残っていませんが、本丸にある備中櫓が平成17年に木造で復元され、石垣と合わせてとても見応えのある状態になっています。 津山城は一二三段として有名だ(写真提供:岡山県観光連盟) まとめ 近世城郭のうち姫路城、松山城、津山城が三大平山城として呼ばれています。それぞれ平山城の特徴…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長のお墓がある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました(京都・浄土宗)

…明智光秀を討った羽柴秀吉が信長の遺骨が阿弥陀寺で供養されているという話を知り、自らが後継者であることを世に示すために信長の葬儀を執りおこなおうと遺骨の引き渡しを求めます。しかしすでに葬式はおこなったと清玉上人は秀吉の申し出を断ったため、秀吉は寺領を四分の一に削り、現在地に移転させました(移転は都市改造計画の一環で阿弥陀寺にかぎった話ではないと思います)。阿弥陀寺は参詣者も減り、困窮しましたが、森蘭丸の弟である森忠政とその子孫が寄進して寺を支えたそうです。ちょっといい話ですね。

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