攻城団ブログ

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浜松藩 の検索結果:

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…れた。慶長年間に遠江浜松藩5万石を与えられたものの、当時の当主が水野忠胤(みずの ただたね)の屋敷での宴に参加した際、口論から刺し殺されて所領没収の憂き目にあった。その遺児が5千石を与えられて再興すると、最終的に摂津尼崎4万石になっている。 東条松平は当主が後継のいないまま亡くなったので、家康の4男・忠吉(ただよし)が後を継いだ。この忠吉も後継のないまま死んだので家名としては絶えたが、領地および家臣団の多くは尾張藩の徳川義直へ引き継がれた。 藤井松平については、家康と同じ時代…

5.譜代大名の出世頭「老中」

…、手を尽くして遠江国浜松藩への転封をしてもらっている。ちなみに唐津藩と浜松藩の石高はどちらも6万石だが、特命がある分、唐津藩のほうには幕府から援助があり、実質20万石近い収入があった。こういった例は他にもあり、表面上の石高と実際の石高の違いから、うまく財を蓄えた大名もいたようである。 幕末には、1836年(天保7年)の脇坂安董が外様大名でありながら老中に任命されている。これは「願譜代(外様大名などが譜代大名を希望すること。認められれば、譜代大名と同様の扱いを受けた)」として譜…

山頂までエレベーター? 唐津城は模擬天守だけど眺望は最高クラス!

…中になりたいがために浜松藩への転封を願い出る前に天守を築いていたら」と考えると楽しくなってきませんか。 忠邦は年貢の取立てが厳しかったことで地元で恨まれたらしいですけど、重税ついでに天守まで建てちゃうというのはありそうな話ですしね。 歴史にはまだまだわかってないことが多く、そうしたミステリーが時代を追うごとにひとつずつ解明されていくことも楽しみですけど、こうしていろんな「If(もしも)」を妄想して語り合うこともまたひとつの楽しみ方だと思うのです。 ぼくにとっての唐津城はけっこ…

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