攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

滝川一益 の検索結果:

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…、有海原(設楽原)に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らが着陣、家康は古呂道坂の上の高松山に布陣し、有海原で連吾川を前に当てて、武田軍の滝川一益とともに馬防柵の設置を開始しました。織田・徳川連合軍は設楽原周辺のくぼんだ地形を利用して、武田軍から大軍が見えないように配置したと言われています。一方、織田勢の援軍が迫っていることを知った武田勝頼は、長篠城の包囲に必要な軍勢およそ2,000、砦群の軍勢2,000を残し、5月20日、決戦のために全軍11,000を率いて滝沢川を超え、有海原(設…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…ていた。関東地方には滝川一益(たきがわ かずます)、北陸地方には柴田勝家(しばた かついえ)が、中国地方には羽柴秀吉(はしば ひでよし=後の豊臣秀吉)、そして近畿地方には明智光秀(あけち みつひで)、といった具合である。 1582年(天正10年)、信長は中国にいる秀吉から「毛利の大軍が攻め込んできたため援軍がほしい」との要請を受けて自ら出陣するべく安土城を出て、京で定宿としている本能寺に入った。この時、彼の周囲にいたのはわずかな供の者だけだった。そして6月2日の明け方、突如と…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…、織田家の重臣である滝川一益の名をとって「滝川雄利」と名乗るようになり、信長の子で北畠家の養子に入った信雄に仕えた(もともと滝川一益の甥で、信長の伊勢侵攻前から織田家に仕えていた、ともいう)。 信長の死後には羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えるようになり、秀吉と徳川家康が小牧・長久手で戦ったあとの和睦交渉や、秀吉の妹・朝日姫が家康のもとに嫁ぐ際の付き添いなどで働いている。これらの功績を評価される形で、伊勢国神戸に2万5千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは西軍について所領を没収されたもの…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…が、信長と柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛といったそうそうたる織田家の重鎮が大和国にやってきた際、その案内役を務めたという逸話が『寛政重修諸家譜』に記されている。 しかし、戦国乱世の事情はすぐに変わるものだ。翌元亀2年、松永久秀は仇敵・筒井氏を攻め、この頃以降は信長に反する動きを見せていく。柳生氏は以前からの付き合いの故か、それとも筒井氏への旧怨を忘れられなかったためか、久秀に味方して戦に敗れたばかりか、宗厳の嫡男で将来の後継ぎとなるはずだった厳勝が重傷を負い、一生まともに歩く…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…入っていた織田重臣・滝川一益が中央へ戻ると、その結果生じた空白地帯を奪うべく、北条の大軍が信濃へ入ってきていたからだ。 ちなみに『信濃松代真田家譜』によると、この時に北条氏直が自らの出自――武田信玄の孫であることを誇示して服従を命じたので、旧武田家臣団は従った、という。武力と権威の両方を振りかざして中小勢力を支配するのは、戦国大名の常套手段であった。しかし、中部地域をめぐる争いは、このまま北条氏の一人勝ちでは終わらない。徳川家康が甲斐にその手を伸ばしてきたのである。また、北の…

小諸城 織田家の凋落を見ていた城

…戦いで織田氏の重臣・滝川一益と北条氏がぶつかり、敗北した滝川陣営が逃げたのが小諸城なのだ。その城には一益の家臣・道家正栄が城代として入っていた。 提供:一般社団法人こもろ観光局 | 三の門と月[小諸城] 元々小諸城の周辺は小笠原氏の一族・大井氏が治め、大井光忠によって鍋蓋城が築かれた。後に武田信玄がこの地を支配すると、東信濃の拠点となり小諸城は鍋蓋城を取り込むように、大城郭に改められた。しかし、信長の攻撃によって、1582年(天正10年)の3月に武田氏は滅亡。空いた領地から、…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…の交渉にあたっていた滝川一益が北条家に負けて関東を追い出された背景にも、家臣団として取り込んでいた国人たちの反抗があった。 各種のマイナス面はあったにせよ、これらの変化が中世武士・戦国大名たちを近世武士・近世大名へと変貌させていったのは間違いない。戦国大名の家臣たちはそれぞれ累代の所領を持ち、その地の領民たちと深い関係を築いていた。下級の武士に至っては領民と区別できない存在である。さらに、家臣団と大名の間にも先祖代々のつながりがあった。結果として、大名とは「土地に深く根を張っ…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…大将とする羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万の大軍を出兵させます。 越前北ノ庄城に結集した後、七尾城へ向けて越前から加賀へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しました。 しかし途中で秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど足並みの乱れが生じていました。 勝家率いる織田軍は手取川を渡り水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら知らなかったようです。 織田軍が手取川を越えて加賀へ侵入したことを知ると、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍…

大ふべん者・前田利太

…の実の父は織田重臣の滝川一益とも、その甥の滝川益氏ともいうが、ハッキリしない。このことが理由なのか、それとも本人の資質が問題視されでもしたのか、利久は主君である信長から前田の家督を取り上げられてしまった。以後、前田の当主は利家ということになる。 その後、利太は信長及び利家の家臣として活躍したようだが、やがて利家のもとを出奔、京に滞在して数々の文化人や時の天下人・豊臣秀吉などと交流があったとされる。そして、関ヶ原の役の時期には、北の雄・上杉景勝の重臣である直江兼続との縁から、上…

【戦国合戦こぼれ話】手取川の戦い―内紛を抱えた織田軍は負けるべくして負けた

…たらしい。羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった有力家臣たちを援軍として差し向け、総計3万とされる大軍を編成させた。 ところが、この織田オールスターともいうべき軍団は、ふたつの問題を抱えていた。ひとつは一部武将同士の仲が悪かったことで、総指揮官である勝家との意見対立の末に秀吉が勝手に軍を引き上げてしまうアクシデントが起きた。 もうひとつは、七尾城の様子がまったくわからなかったことだ。能登の一向一揆衆が上杉側に付いて情報を遮断したことが原因であるらしい。「これでは戦えない」と織田…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…られ、関東を任された滝川一益の与力とされた昌幸でしたが、沼田城と岩櫃城を取り上げられてしまいます。 ここから前半の鍵である「沼田問題」がはじまるわけですね。 解説画像は織田家と真田家がゾウとアリくらいの格差があるってことを表現したかったんですけど、あんまりうまくいかなかったですね。 #真田丸 第4話の前の予習。当時の織田家と真田家の格差は「下町ロケット」における帝国重工と佃製作所よりも大きかったと思います。だから昌幸が信長に少しでも自分たちを高く売り込もうと画策したのも不思議…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…、織田信長に臣従し、滝川一益の与力武将となる。6月19日に一益が「神流川の戦い」で北条氏直に敗れ逃走すると、21日に叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回し、同時に信幸を岩櫃城に送って上野方面の守備を固める。信繁は一益の人質に、さらには木曽義昌の人質になるも、9月に帰国。その後、昌幸は6月24日頃に上杉家に、さらに7月9日には北条家と臣従先を変えるが、9月25日に徳川家康に従属することを選ぶ。 3月11日、勝頼・信勝父子が自刃し、武田家滅亡。6月2日、「本能寺の変」で織田信長…

全国にある織田信長の墓所

…母養徳院の菩提寺や、滝川一益の墓もある 建仁寺本坊 京都市東山区 供養塔がある 今宮神社 京都市北区 旧阿弥陀寺にあった祠を移す 建勲神社 京都市北区 信長を祭神として東京の織田子爵家邸内に建てられたが、明治13年に遷座 聖隣寺 京都府亀岡市 信長の子で、秀吉の養子となった秀勝が建立 高野山金剛峯寺 和歌山県高野町 明智光秀・豊臣秀吉などの墓もある 西光寺 滋賀県近江八幡市 元は安土城下に所在したが、豊臣秀次が近江八幡城を築城した際に移築 (安土城内)総見寺 滋賀県蒲生郡安土…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する