攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

片桐且元 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…方はこの弁明者として片桐且元を駿府へ送りますが、家康は会おうとしません。一方で淀殿が送った使者は丁重にもてなし、何も心配することはないと伝えました。且元は秀頼が大坂城を出ること、淀殿を江戸へ送ること、秀頼が幕府の支配下にはいることの3つの条件を提示しますが、大坂方は裏切り行為として且元討伐を決めます。ここで家康は待ってましたとばかりに大坂方を討つ正当性をもって、武力による解決の道を選びます。この辺りは家康の方が試合巧者だったと言えるでしょう。大坂方が反発することも計算に入れた…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…同じことが大坂の陣の片桐且元にも言える そもそもは家康が上洛しないから 秀吉との対決を覚悟して、岡崎城など領国内の城を改修する、軍制を武田家のものに改める、三河国衆の人質(妻子)は岡崎から浜松へ避難させる 11月、秀吉による家康成敗が計画された(翌年正月に実行予定) しかし11/29天正大地震により中止 三河より畿内・尾張・美濃・北陸など秀吉の勢力圏内の被害の方が甚大だった(三河では松平家忠が城普請を継続している) これにより秀吉は家康に対して融和政策に方針を転換していく @…

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…に接触することができた。これに加えて豊臣家の重臣である片桐且元の協力も得られ、長親は豊後国森藩で大名としての再興にこぎつけたのである。1601年(慶長6年)のことであった。 その後、1616年(元和2年)には「久留島」と名を改めたが、まもなく波乱があった。1619年(元和5年)、お家再興に大きな力となってくれた福島正則が改易となってしまうのだ。久留島家も連座で処罰を受ける可能性もあったが、さまざまな工作の末、幸運なことにこの危機は回避され、森藩主として幕末まで続くことになる。

沼田市で開催中の「上州沼田真田丸展」を見にいってきました

…あの沼田裁定の回で、片桐且元が秀吉に「長いっ!」とさえぎられちゃった沼田プレゼンの資料が展示されていました。 ほかにもドラマの撮影で大泉さんが着用した信幸の甲冑とかもありましたね。 (空いてたというのもありますが)500円なら十分満喫できる展示内容だったと思います。 帰りはさっきの階段のところを通ったのですが、めちゃくちゃ急でした。 階段もこんな感じです。右側(内側)はもう歩けないと思うんですけどね。 夕方の電車に乗って東京に戻りました。 朝8時くらいに出れば、都内からでも十…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…福島正則、加藤嘉明、片桐且元、脇坂安治、糟屋武則。そしてもう一人。」 信繁「名前が出てきません」 三成「それがヤツだ」 のやり取りは、歴史好きにはたまらないんじゃないでしょうか。ちなみに長泰は第二次上田合戦に参加してるので、敵味方として登場するかもしれません。 解説画像は1586年(天正14年)当時の勢力図です。 #真田丸 1586年当時の勢力図。上杉、徳川が臣従し、秀吉に敵対する勢力はもはや九州の島津と関東の北条(と東北の各大名)だけです。真田家はすでに信繁を人質に送り実質…

城大工と宮大工

…正清の父、中井正吉が片桐且元に請われて大坂城の築城に参加したという記録はあるそうですが、どういう立場での参加だったのかはわかりません。 (おそらくは棟梁もしくはそれに準じた立場だと思うのですが) なお、豊臣大坂城は「大坂の陣」で焼失し、そのあとに徳川家によってあらたに大坂城が築かれますが、この棟梁をつとめたのは中井正清の長男で、正吉の孫にあたる中井正侶(まさとも)です。 岡部又右衛門はもともと熱田神宮の宮大工、中井正吉も法隆寺の宮大工というように、安土桃山時代にお城に天守が築…

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