攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

田中吉政 の検索結果:

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…に、次いで黒田長政、田中吉政、池田輝政、藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…移ったのちに入城した田中吉政が城を拡張したのにともなって築いたとされ、それ以後の城主によって整備がすすめられたと考えられています。したがって、元康時代の痕跡をたどることも困難な状態です。しかし、家康は浜松城に居城を移すまでのおよそ10年の間をこの城で過ごしており、三河平定を成し遂げています。 いまとは違う土造りだった岡崎城 清海堀はいまでも残っている中世の遺構 清海堀は元康のころにもあった 元康時代の城の様子はほとんどわかっていませんが、その中でも「清海堀」(せいかいぼり)は…

上州に残る石田三成生存伝説

…は戦場から逃亡するも田中吉政によって捕らえられ、家康の命により六条河原で斬首されたと伝わっていますが、じつは生き延びていたという伝承が群馬県に残っているそうです。よくある英雄不死伝説のひとつだとしてもこうした伝承が残った背景にはとても興味があるので、本件について調査をされた吉澤さんに寄稿いただきました。 石田三成公のお墓が群馬にあるらしい! 9月初旬に御城印を集めている方から「石田三成が群馬に生存していた」と情報を頂きました。ネット検索では沼田市薄根村誌にある正行院というお寺…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…吉に仕えていた武将・田中吉政から、徳川家の重臣である本多家につながる本多康重へと交代した。大垣藩は関ヶ原の戦いで西軍に加わった伊藤家が取り潰され、岩津譜代の石川家が治めた。 また、近江佐和山に井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝という、譜代大名の中でも特に重鎮とされる2人が配置された。佐和山は関ヶ原の戦いにおいて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を知らしめる必要があったのだ。一…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…和歌山37.6万石 田中吉政 三河岡崎10万石 筑後柳河32万石 堀尾吉晴 遠江浜松12万石 出雲松江24万石 山内一豊 遠江掛川5.1万石 土佐浦戸20.2万石 藤堂高虎 伊予板島7万石 伊予今治20万石 中村忠一 駿河府中14.5万石 伯耆米子17.5万石 京極高知 信濃飯田10万石 丹後宮津12.3万石 京極高次 近江大津6万石 若狭小浜8.5万石 仙石秀久 信濃小諸5.7万石 所領安堵 いずれにせよ、大坂城に豊臣秀頼がいる状態で、これらの豊臣恩顧の大大名たちが結託すれ…

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