攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

荘園 の検索結果:

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…出してはいけない」「荘園の段銭は例年通り、臨時の税なども百姓たちに哀れみを忘れずに」などという項目がある。これらは敬語で書いてあるので、家臣が作った部分と思われる。武田の「甲州法度」にも、「晴信(信玄)の言動などが法令の趣旨に反するなら身分に関係なく告発するように」といった意味の条文がある。 どうやら分国法というものは大名の自由や権限を抑制する意味合いもあったようです。言い換えると自らの行動に制約を加えることで、家臣や国衆、領民たちに協力を求めるために作っているケースがけっこ…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…町幕府vs六角氏) 荘園や奉公衆の所領を押領していた近江守護・六角行高(後の六角高頼)を幕府の威信回復を企図した9代将軍・足利義尚が攻めた。六角征伐とも、鈎の陣(まがりのじん)とも 室町時代 1487年(長亨元年)〜1505年(永正2年) 長享の乱(山内上杉家vs扇谷上杉家) 関東管領で山内上杉家の上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良(ともよし))の間で20年近くにわたって続けられた戦い。一族内での争いにより上杉氏の勢力は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)の関…

【クーデターで読み解く日本史】将軍を手玉にとった六角高頼の知略――長享・延徳の乱

…(長亨元年)、他人の荘園を勝手に支配して返そうとしない近江守護・六角高頼(ろっかく たかより)を攻めるべく出陣する。 義尚自らが率いる数千の壮麗な軍勢は人々の注目を集めつつ出発し、すばやく六角高頼の本拠地である琵琶湖東へ進軍した。これを受けて高頼は戦わず退却したので、幕府は近江の奪還には成功したものの、目的である高頼の征伐はかなわなかった。その背景には本来主力となるはずの守護大名たちの足並みがそろわず、管領・細川政元(ほそかわ まさもと)をはじめこの出陣に反対の声が強かったこ…

【クーデターで読み解く日本史】追いつめられた農民は将軍よりも強い!?――山城国一揆

…立ち入りを禁じる」「荘園をもとの持ち主に返す」「関所を新たに作らない」の3ヶ条を飲ませた。以後、南山城の一部はなんと8年間にもわたって彼ら国人たちによる自治区となったのである。 しかし、それも新たな守護・伊勢貞陸(いせ さだみち)が幕府に任じられ、幕府から「貞陸に従うように」という命令が下るまでであった。一部の国人たちは貞陸に従うようになり、残る反対勢力は稲八妻城に立てこもったものの攻め落とされ、山城国一揆は瓦解したのである。 それでも、京のおひざもとの山城国で一揆による武力…

【クーデターで読み解く日本史】源平合戦の背後で蠢く地方武士の思惑とは?――治承・寿永の乱

…ても義経であった。敗れた平氏一族は次々と入水自殺を遂げ、その中にはまだ幼い安徳天皇(あんとくてんのう)の姿もあった。ここに平氏政権は滅亡したのである。 平氏政権滅亡後の主導権を握ったのは頼朝だった。独断専行が目立った弟の義経を排除し、その義経と手を結ぼうとした後白河法皇に圧力をかけて全国に守護(各国の地方行政を担当する)と地頭(荘園を管理する)を設置することを認めさせた。さらに頼朝は征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を開く。時代は貴族政治から武家政治へとはっきりと転換したのである。

【クーデターで読み解く日本史】天下を揺るがした武士の反乱――承平・天慶の乱

…て二つだ。 ひとつは荘園――寺社や貴族の私有地の登場である。どうして彼らが広大な私有地を獲得するに至ったかといえば、十世紀頃より彼らが持つようになった特権の存在こそが最大の理由である。不輸・不入、つまり「国家に税も払わないし、役人も立ち入らせない」。このような特権を持つ彼らの下に、各地の有力農民たちから「自分の土地を受け取ってくれ」と依頼が舞い込むようになる。そうすれば農民たちの土地も税が免除されるからだ。こうした動きの結果、各地の有力民たちは力を蓄え、さらに武力までもって武…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府8代・久明親王――南北朝内乱の予兆を感じさせる将軍 1276年~1328年

…皇のものである広大な荘園をもめぐって、争うことになったのだ。後深草の血筋を持明院統、亀山の血筋を大覚寺統という。前者は後深草の、後者は後宇多の居所が由来となっている。 久明親王が将軍になった背景 1288年(正応元年)、幕府の意を受けて後宇多天皇の後に天皇となったのは、後深草上皇の皇子である伏見天皇だった。亀山上皇が進めていた朝廷改革が幕府にとって不快であったこと、持明院統が積極的に対幕工作を繰り広げていたことなどが原因だったようだ。翌年、将軍として迎えられたのが後深草天皇の…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…制論において、いまだ荘園領主として権力を持っている公家と寺家の力をそいで、武家中心の体制をつくるという意味でもあります。また「天下」についても日本全国ではなく、あくまでも畿内、京周辺のことを指しているとされます。 このあたりは信長の前の「天下人」とされる三好長慶について調べるとよく出てきますね。「城たび」をつくったときも読みました。 kojodan.jp 信長による義昭の追放と藤孝 信長と義昭の関係悪化 1570年(元亀元年)4月、信長の越前朝倉攻めと光秀・藤孝 藤孝は義昭に…

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