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【クーデターで読み解く日本史】追いつめられた農民は将軍よりも強い!?――山城国一揆

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1485年(文明17年)~1493年(明応2年) ○伊勢貞陸 ×一揆

応仁の乱はその中心人物である山名持豊(やまな もちとよ)と細川勝元(ほそかわ かつもと)が相次いで病死したこともあって和睦で終わったが、畠山氏の家督をめぐる政長(まさなが)と義就(よしなり)の戦いは南山城(みなみやましろ)を舞台に続いており、両軍による合戦が農民に大きな負担を強いていた。
兵員としての参加や戦費の徴収が重く、戦禍に巻き込まれて家を捨てる者も少なくなかったのである。

そのために1485年(文明17年)、苦しむ農民たちを支持基盤に国人たちが一揆を結成し、政長・義就らに対抗することになった。
これについては、細川氏と関係の深い国人が多かったため、裏で細川氏が糸を引いていたのではないかという説もある。

一揆勢力は武力をちらつかせながら両軍に退陣を要求して見事これを勝ち取り、さらに「畠山氏の国内への立ち入りを禁じる」「荘園をもとの持ち主に返す」「関所を新たに作らない」の3ヶ条を飲ませた。
以後、南山城の一部はなんと8年間にもわたって彼ら国人たちによる自治区となったのである。

しかし、それも新たな守護・伊勢貞陸(いせ さだみち)が幕府に任じられ、幕府から「貞陸に従うように」という命令が下るまでであった。
一部の国人たちは貞陸に従うようになり、残る反対勢力は稲八妻城に立てこもったものの攻め落とされ、山城国一揆は瓦解したのである。

それでも、京のおひざもとの山城国で一揆による武力反乱が長期にわたって成立してしまったという事実は、幕府の権威と実力が著しく低下していた証拠と考えていいだろう。

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