西郷隆盛 の検索結果:
…伊達政宗、島津斉彬と西郷隆盛、山内一豊らのエピソードを紹介していますが、徳川家康が「相撲をやるなら畳の裏を返せ。畳の縁がすり減ってお茶の師匠が怒る」と注意したという逸話はおそらく創作でしょうけど、そのくらい相撲を取ることが日常的に行われていた裏返しでもありますね。 勧進相撲から興行・スポーツとしての相撲へ 江戸初期、京都・大坂から勧進相撲(勧進=寺社や橋の建立や復興のための寄付目的で行われる相撲が、やがて普通に営利的な興行に)が出現します。また盛り場では投げ銭目当ての見せ物と…
…、さらに薩摩藩からは西郷隆盛ら多数の維新志士が現れ、長州藩と共に倒幕・明治維新への原動力となった。 複数リーダーは諸刃の刃 戦国大名・島津家は華々しい活躍に飾られた一族である。しかし、その背景には一族の内乱や兄弟の反日、中央権力による干渉などの度重なる苦難があった。むしろ、島津家の凄まじいまでの戦闘能力はそのなかで磨かれたのだ、と思えば納得もいくというものだ。 たとえば、関ヶ原での撤退時に使った戦術は島津家に伝わる「捨てがまり」と呼ばれるもので、主君を逃がすために家臣が次々と…
…件。征韓論争に敗れた西郷隆盛の支持者による犯行 明治時代 1874年(明治7年) 佐賀の乱 江藤新平らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱。鎮圧されたが、以後士族による反乱は続発する 明治時代 1876年(明治9年) 神風連の乱 廃刀令への反対運動として熊本で起こった、明治政府に対する士族反乱。敬神党の乱(けいしんとうのらん)とも 明治時代 1876年(明治9年) 秋月の乱 神風連の乱に呼応して秋月で起こった、明治政府に対する士族反乱 明治時代 1876年(…
…反論し、また薩摩藩の西郷隆盛(さいごう たかもり)が短刀をちらつかせて実力行使を示唆したことで押し切られた、という。 これによって江戸幕府は名目上消滅したわけだが、まだ新政府側の勝利と決まったわけではなかった。むしろ強引なクーデターが諸藩の反発を招き、情勢は旧幕府有利へと傾きつつあったからだ。そこで新政府は旧幕府を挑発して戦端を開かせ、実力によってこれを打ち破る道を選ぶ。結果、鳥羽・伏見の戦いで勝利し、続く戊辰戦争で旧幕府方勢力を駆逐した新政府は、列強諸外国に伍するだけの力を…
…政府側の指揮官である西郷隆盛と、旧幕府側の代表者である勝海舟の会談によって江戸城の攻撃は免れ、慶喜は水戸で謹慎、ということになった。徳川家自体は、将軍就任時に対抗馬として名前が挙がった田安亀之助が「徳川家達(とくがわ いえさと)」として継承しているが、もちろん征夷大将軍ではもはやない。その後も江戸や東北諸藩には旧幕府側勢力が存在し、彼らと新政府が激突する戊辰戦争がしばらく続くことになる。それらの戦いに、慶喜はまったくかかわっていない。 その後の徳川家と慶喜 家達は新政府によっ…
…軍が迫る中、薩摩藩の西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を達成したことで有名だ。その後、陸軍総裁をはじめとする役職は役目を終え、姿を消したのである。 京都守護職(きょうとしゅごしょく) 1860年(万延元年)、対立する派閥および尊王攘夷運動(朝廷を旗印に、諸外国を排除しようという動き)を弾圧していた大老・井伊直弼が「桜田門外の変」によって暗殺された。これ以後、尊王攘夷過激派が京都を中心に活動を活発化させ、畿内全域は急激に治安が悪化する。彼らに対し、畿内を守護するために置かれた役職が…
…て篭もった政府軍は、西郷隆盛が率いる反乱軍の執拗な攻撃を52日間も耐え抜きました。けっきょく攻めきれず退却を余儀なくされた西郷が残した「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」という言葉は有名です。 なお、韓国の南東部に位置する慶尚南道(キョンサンナムド、けいしょうなんどう)には、現在も機張城と西生浦城の石垣がそのまま残ってるそうです。いつか見にいってみたいものですね。 バッジになりました このページで紹介している加藤清正によって築かれた城のリストがバッジになりま…
…に沿って歩きます。 西郷隆盛像です。 来年の大河ドラマ「西郷どん」の主役ですね。 さらにここをまっすぐ進んだところに照國神社があります。 照國神社は島津斉彬を祭神とする神社で、このおおきな鳥居で有名ですね。 境内のあちこちに島津氏の家紋「丸に十の字」があります。 最近はどこの神社にいってもいろんな種類のおみくじがありますが、照国神社にも10種類近いおみくじがありました。 巫女さんに聞いて、いちばん古くからあるおみくじを引きました。 大吉! 願い事も「思わず早く叶う」とあるので…
…向かいます。 途中、西郷隆盛が西南戦争のときに宿にしたという武家屋敷などもあります。 人吉城は想像以上に大きかったです。 これは大手門があった場所で球磨川から分岐した胸川に面しています。 このへんから強い雨が降ってきたので、ほとんど写真は撮れてないんですけど、この大手門を入った場所は「外曲輪」と呼ばれていて、武家屋敷などがありました。 (本丸、二の丸、三の丸はこの奥の山側にあります) そしてかつての武家屋敷(それも家老の相良清兵衛の屋敷)跡に、人吉城歴史館があります。 館内は…