攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

豊臣大坂城 の検索結果:

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…・佐藤先生復元案と、豊臣大坂城を参考に復元された宮上先生復元案、松江城天守を参考にされた中村先生復元案、均整のとれたシンメトリーな塔建築及び宣教師の記録を重視された兵頭先生案、ウィンゲのスケッチを参考にされた西ケ谷先生案・森先生案、といったようにそれぞれの特色が見受けられます。 安土城天主は外観に関する記録が乏しく、その中で外観を復元するためには何らかの参考資料をもとに推定復元を行うのが合理的だと思われますが、何をどの程度参考にして復元に反映すべきかが今後の復元の鍵になると思…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…件 復元された石垣。豊臣大坂城は絢爛豪華だったという 関ケ原の合戦ののち豊臣政権はしばらくは存続していましたが、1603年(慶長8年)に家康は征夷大将軍となりました。すぐに豊臣を追い払おうとしたかというと、そうではありません。自身が将軍になると豊臣秀頼を大納言から内大臣に昇進させ、徳川秀忠の娘、つまりは自分の孫である千姫(7歳)を秀頼(11歳)と結婚させました。さらに2年後の1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると秀頼を右大臣に昇進させました。このように豊臣公儀と徳川公…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…土城黒鉄門や、秀吉の豊臣大坂城本丸桜門などに使われた形式で、これを連続させて用いて防御機能を高めていることがわかります。最後は馬出です。馬出は城門の前の堀の対岸に橋でつないだ一定の区画のことを言い、甲斐の武田氏や関東の北条氏などが用いた出入り口の形態です。主に東日本で発達しました。江戸城の本丸北側ではこの馬出を三つも連続させて防御している様子がわかります。このように、「江戸始図」の発見によって本丸と天守の構造が明らかとなり、家康の築城術を目の当たりにすることができるようになり…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

摂津の大坂城(大阪府大阪市、現在は大阪城と呼ばれる)は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地を利用して築いた壮大な平山城である。この地は秀吉の旧主である織田信長も注目した要地であり、京とは淀川で結ばれ、大坂湾も近くと、政治経済の中心地となれるだけのポテンシャルを備えていた。実際、秀吉の支配化で大坂の地は大いに栄え、江戸時代になっても「経済面の首都」的な地位を保持し続けることとなったのだから、本願寺・信長・秀吉の目は正しかった、ということになる。 防衛拠点として見ても、この地は三方向を川…

大阪城で公開されている豊臣時代の石垣を見てきました

…とがわかりますね。 豊臣大坂城の石垣一般公開 コロナ以降、こうした現地説明会のような見学会の参加人数が制限されるようになってしまったのは残念ですが、いまは写真や動画での共有がとても簡単になったので、参加できた方は積極的に現地の模様をレポートして、SNSやブログでみんなにシェアしていきましょう。 なお見学は上からだったので鉄骨に視界をさえぎられていますが、下に降りて地表面から撮影された動画が「豊臣石垣公開プロジェクト」の公式サイトにありますので、こちらもぜひ。現地で配布された資…

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…の戦いの前哨戦にて 豊臣大坂城:大阪冬の陣夏の陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもあるかもしれないので、いろいろと探してみてください。 備えあれば 戦国の世ではいつ籠城戦になるかわからないため、城郭全体だけでなく天守にも籠城戦に必要な設備が備えられたところがあります。※ここでは天守の籠城への備えだけに絞りました。 畳敷き 籠城戦において多くの人々が天守に詰めることになれば、そこは一転して生活の場にもなります。天守の床は現在では板張りになっていますが、…

【お城の基礎講座】22.鯱(しゃち・しゃちほこ)

…いませんが、安土城、豊臣大坂城、広島城、岡山城にも挙がっていたと思われます。 ▲ 大坂城復興天守には金の鯱が上げられている。かつての豊臣大坂城天守にも金シャチが上げられていたらしい。 ▲ 岡山城外観復元天守。金の鯱が上げられている。かつてもこのような姿だったのだろうか ▲ 清洲城模擬天守。信長の居城だったためか、模擬天守にも金の鯱が輝く。 まとめ 鯱は頭が虎、体が魚の空想上の生物ですが、火除け・守り神として天守に付けられています。その素材は瓦製がほとんどですが、金の鯱で有名な…

琉球版・麒麟がくる!? 阿麻和利の居城・勝連グスクを取材してきました

…防御に使うというのは豊臣大坂城や忍城はじめ、本土のお城でもよく見られたアイデアですね。 ふだんは田んぼとして稲作をしていたようで、じっさい明治初期まで田んぼとして使われていたそうです。なお湿地帯があるということは水が豊富ということでもあり、後述しますが、城内には井戸もたくさんあります。 階段をのぼると四の曲輪に出ます。 四の曲輪 城内でもっとも広いのがこの四の曲輪です。約2000坪あるとか。 上の写真の右側、つまり三の曲輪側に重臣の居住区が、反対側にはノロ(神女)や鍛冶屋など…

大坂の陣、真田幸村の三段突撃

戦国時代最後の戦い、「大坂の陣」で名を上げたのはなんといっても真田幸村(信繁)であろう。豊臣秀吉に重用された謀将・真田昌幸の次男である彼は、「関ヶ原の戦い」で父とともに徳川秀忠の軍勢を翻弄したことから、戦後は九度山に幽閉されていた。それが幕府と豊臣家の関係が険悪化すると脱出、浪人として大坂城に身を寄せ、「大坂の陣」に参加することになったのである。 まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで…

【協賛:静岡市】駿府城跡天守台で体験発掘の参加者を募集中!【終了】

…が見つかったケースは豊臣大坂城や福岡城などいくつかありますが、天守台が残っているのは貴重です。 さて、前置きが長くなりました。 今日ご紹介するのは、この発掘現場に入って自分で発掘体験できるというイベントのご案内です。 「駿府城跡で体験発掘」のご案内 今年6月からすでに何度か開催されているこの「駿府城跡で体験発掘」は小学4年生以上なら誰でも参加できます。もちろん静岡市民以外でも参加可能なので、夏休みの旅行などで訪問予定を立てる際にあらかじめ開催日を調べて予約しておくといいですね…

城大工と宮大工

…が築いた初代大坂城(豊臣大坂城)の棟梁を誰がつとめたのかはよくわかってないそうです。 のちに徳川家康のお抱え城大工として多くの城を築くことになる中井正清の父、中井正吉が片桐且元に請われて大坂城の築城に参加したという記録はあるそうですが、どういう立場での参加だったのかはわかりません。 (おそらくは棟梁もしくはそれに準じた立場だと思うのですが) なお、豊臣大坂城は「大坂の陣」で焼失し、そのあとに徳川家によってあらたに大坂城が築かれますが、この棟梁をつとめたのは中井正清の長男で、正…

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