攻城団ブログ

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中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

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3月に大津市で安土城についてのセミナー「安土城復元研究の過去・現在・未来」が開催されました。ちょうど京都御城印サミットの初日と重なっていたためぼくは参加できなかったのですが、このセミナーに参加された早稲田大学城郭研究会の中村優希さんにレポートを書いていただきました。
中村さん自身が高校生の頃から安土城の研究に取り組まれてきたこともあり、非常にわかりやすいレポートとなっています。補足や所感も読み応えがありますので、セミナーに参加できなかった方はもちろん参加された方もぜひ読んでください。

このセミナーのPDFが配布されていますので、ダウンロードした上で読まれることをオススメします。
令和4年度歴史セミナー資料

はじめに

滋賀県は安土城築城450年を迎える2026年に向けて、安土城の往時の様子をより一層明らかにしていくことを目的とした「幻の安土城復元プロジェクト」に現在取り組んでいます。
しかし、完成後間もなく焼失した安土城は往時の姿を伝える資料の数が限られており、安土城の復元をめぐって解決すべき様々な議論や課題が存在しているという現状があります。そこで、今回のセミナーでは、安土城、特に天主に関する資料や発掘調査による知見などを見直し、安土城復元という課題を深めていくことが目的とされました。 
セミナーのプログラムは3部・7部門からなり、それぞれの部門において専門の先生方による講演がありました。今回はそれらの内容を要約するとともに、セミナーを拝聴した筆者自身が考えたことについてまとめていきたいと思います。

第1部「安土城天主の復元研究」について

①「安土城天主の復元研究史」木戸雅寿先生

まず初めに滋賀県文化スポーツ部文化財保護課参事員の木戸雅寿先生による、当セミナーの核心的テーマの「安土城天主復元研究史」についてご講演がありました。本講演の要旨は以下の2点でした。

  • 安土城は20〜30年の周期で復元の関心が高まるが、たびたびその構想が頓挫してきた先例がある。
  • 現在は、安土城の姿を物語る資料の乏しいことで復元研究が混乱しているため、そして、文化庁の定める「復元に関するガイドライン」を満たすことが困難であるため、安土城天主の復元的整備が困難であるという課題がある。

それでは早速本公演の内容を要約していきます。

そもそも、安土城天主復元研究の歴史には0期から4期の画期があるとのことです。

0期は江戸期から明治期にかけてのことで、当時認知されていた数少ない資料の元、郷土史家の奥村徳義(安政5年)や絵師の鷗雨(明治29年)が天主の想像復元を行いました。ただし、この「復元」は安土城趾へ実際に天主を建造することを目的としたものではありません。

1期は昭和初期において、実際に安土城跡で天主を再建することが視野に入れられ、建築家の土屋純一先生・城戸久先生(昭和5年)や、同じく建築家古川重春先生(昭和11年)が天主復元平面図と立面図を発表しました。
ただし、この復元案は天主台の詳しい調査が行われる以前、すなわち未だ天主台がほぼ土砂に埋没していた時代に発表されたものであるため、実際の天主台の形状と比較して、復元図の1階平面の規模や形状の誤差が甚だしく、復元図の通りに建造する事は不可能です。

2期では、昭和の天主台発掘調査の結果に基づいて天主復興が計画され、室内に歴史資料の展示場などを備えた鉄筋コンクリート造の天主の再建を果たそうと、小河建築設計事務所の渋谷五郎先生と顧問の城戸久先生が天主復元立面図・平面図を発表しました。
しかし、この計画と同時に西武グループの堤氏が安土城跡にロープウェイやホテルを設置して観光地化することを目論んでいたことが発覚したことで、国会や文化庁は安土城の一連の再建計画を問題視して、その構想が頓挫しました。

3期は名古屋工業大学の内藤晶先生が静嘉堂文庫から安土城天主の平面図とおぼしき「天守指図」という資料を発見したことに端を発するものです。内藤先生は「天守指図」を安土城天主の真性なる姿を示す資料と考え、それを下地にして昭和49年に天主復元平面図や立面図、断面図等を発表しました。
内藤先生復元案は「天守指図」の記録の通り、室内に吹き抜けや宝塔、能舞台などをそのまま採用した斬新さに特徴があります。

一方、「天守指図」は安土城天主焼失後約100年を経た江戸期の模写であることが判明しており、建築史家の宮上茂隆先生は「天守指図」から見出される数々の疑問点・問題点や、内藤先生の復元方法における不審点などからして、そもそも「天守指図」は安土城天主の真性な資料ではないと推定し、それを復元資料としては用いず、その他の文献史料のみに基づき天主の復元平面図・立面図等を作成しました。
なおこの当時、武村知事を中心に滋賀県は内藤案に準拠して安土城天主の復元を計画しましたが、文化庁は復元案が多く存在し、学説が分かれ決着がついていないことを問題視し、天主復元の許可を下しませんでした。むしろ未発見の「安土山図屏風」を捜索したり、安土城跡を史跡として整備したりすることが先決であると指摘しました。結局この際も天主復元は頓挫したことになります。

4期は平成の大調査が行われる中で、再建を直接的な目標とはせずに、学術的研究成果という形で兵頭与一郎先生、石原守先生、佐藤大規先生、中村泰朗先生らの天主復元案が発表されました。
そしてこの流れは現在の「幻の安土城復元プロジェクト」へと繋がっていきます。

こうして安土城天主復元史を振り返る中で見出される共通点は、
「何らかのきっかけにより安土城再建に対する関心が高まり復元図が作成されるものの、再建に至るまで諸問題が立ちはだかり、結果として復元計画が頓挫してきている。」
ということです。

もちろん、今現在(2023年)においても過去と同様、天主の復元についてはいくつかの課題を抱えており、再建の実行は現時点では到底不可能ということができるでしょう。
その課題として挙げられるのは、これまで判明しているように安土城天主を精密に復元するために十分な量の資料が揃っていないことや、限られた資料のもとで数々の復元案が提示されたがそれらの復元案の間で学術的な決着がつかないでいるということはもちろんのこと、それに加えて文化庁の定める歴史的建造物の復元ガイドラインの条件の厳しさが挙げられます。

そもそも当ガイドライン(特に後半の赤字部分)を満たす天守の「復元」自体が到底不可能であり、「復元的整備」(一部が史実と相違するがほぼ精密な歴史的建築物の再建)を行うことが関の山となりますが、復元的整備を行うにしても、ガイドラインを満たすためには安土城の内観と外観が分かる絵図や指図、さらには写真(‼︎)が必要となり、少なくとも天主外観を描いた「安土山図屏風」が発見されなくては天主の具体的な復元的整備に関する議論はほとんど進めることができないことになります。

これらのことを総括して、木戸先生は安土城天主を巡って多種多様な復元案が提示されては論争が巻き起こってきたことを指摘されるとともに、学術性が不足した民間の復元案による真実性の混乱を憂慮されていました。そして将来もひとつの真実の姿が追究されるのは続いていくだろうと締め括られています。
果たして長年の夢とも言える、幻の安土城天主の再建が果たされる時は来るのでしょうか⁉︎

【筆者の一言】

・安土城天主復元案について

筆者は安土城天主の復元研究と並行して、安土城天主の先行復元案の調査を行ってきました。復元案が掲載されている書物を探しに、たくさんの図書館や古書店を巡ったのは良い思い出です。ある時、偶然立ち寄った古書店でずっと探していた本を見つけられたり、またある時は今まで知らなかった復元案を偶然発見することができたりした時の喜びは今もはっきり覚えています。こうした中で、管見の限りではありますが、これまで発表されている安土城天主復元案は以下が挙げられます。

『絵本太閤記』挿絵案、(「天守指図」案)、奥村徳義案、鷗雨画伯案、土屋純一先生案、古川重春先生案、渋谷五郎先生案、櫻井成廣先生案、内藤晶先生案、宮上茂隆先生案、西ケ谷恭弘先生案、兵頭与一郎先生案、石原守先生案、森俊弘先生案、藤井尚夫先生案、佐藤大規先生案、千田義博先生案、中村泰朗先生案合計18案。
(なお、櫻井先生や西ケ谷先生など復元案を更新された例もあり、また、他にも歴史系雑誌が独自に制作した復元CGや、在野研究者の方々の研究成果に基づきインターネット上で公表されている復元案・模型及びイラストも数例存在します)

先行復元案に関して、復元された天主の外観は何を参考資料にしたかによって大きな差が見受けられる点は興味深く思えます。
例えば外観に関して、岡山城天守を参考に復元された櫻井先生初期復元案・内藤先生復元案・佐藤先生復元案と、豊臣大坂城を参考に復元された宮上先生復元案、松江城天守を参考にされた中村先生復元案、均整のとれたシンメトリーな塔建築及び宣教師の記録を重視された兵頭先生案、ウィンゲのスケッチを参考にされた西ケ谷先生案・森先生案、といったようにそれぞれの特色が見受けられます。

安土城天主は外観に関する記録が乏しく、その中で外観を復元するためには何らかの参考資料をもとに推定復元を行うのが合理的だと思われますが、何をどの程度参考にして復元に反映すべきかが今後の復元の鍵になると思われます。
もし安土城天主の外観が描かれたとされる屏風絵が発見されたら、その実像は一気に明らかにされ、安土城天主と後世の城の天守との共通点や、安土城に関する諸資料の記録の指し示すものは何かが詳らかに明らかになると思われますが、屏風絵が発見されていない現在、その時をひたすら待つしかありません。

②「安土城天主復元の最新研究」中村泰朗先生

続いて広島大学の中村泰朗先生のご講演です。中村先生は安土城の研究者として、建築史学という観点から天主の学術的復元に取り組まれており、セミナーが開催された月(2023年3月)にも新たな論文を発表され、まさにリアルタイムで安土城天主の研究を行われているようです。

上図は中村泰朗先生案安土城天主南面復元立面図。配布資料より引用。

中村先生は、安土城天主の復元研究にあたって信憑性が疑問視されることの多い「天守指図」は用いず、主に天主室内の座敷の広さや画題を記した文献である『信長公記』や、天主外観を記録した宣教師の記録、さらに平成の安土城発掘調査による成果を基本の参考資料として復元を行い、資料に記録がなく詳細が不明な部分は類例となる建築物(特に松江城天守や三原城本丸大広間、二条城二の丸御殿など)を参考にすることで復元されたとのことです。
確かに中村先生案の天主断面構造が松江城天守のそれとどこか似ているように感じられます。

そして、こうした研究の集大成として、安土城天主の復元立面図・平面図・断面図を作成されました。
中村先生はご自身の復元案の特徴として、

  • 母屋(もや。身舎とも書かれ、廊下を除いた、部屋のある部分のこと)が穴蔵(天主台の内部にある地下蔵)にほぼ同規模で直上すること(=それぞれの階の母屋は真上から見れば丁度穴蔵の範囲に収まること)
  • 地上1階の北側に付櫓状の土蔵を設けていること
  • 逓減が大きいことで下階の屋根が上階に迫り窓が設けられなくなる問題を解消するために、出窓を設けていること(cf.松江城天守の出窓)
  • 破風や突上戸など、様々な箇所に装飾金具を設けていること

を挙げられていました。

上図は中村泰朗先生案安土城天主南北軸復元断面図。穴蔵に直上して地上1〜3階の母屋が設けられている。

また、今後の復元の課題として、

  • 穴蔵中央部の穴は掘立の本柱の抜跡か、仏教的なものを入れたものか
  • 礎石に柱が直上するか、土台を敷いたのか
  • 出窓の大きさを修正するべきか

について検討する必要があることを挙げられ、さらなる精査を進められていくそうです。
安土城を含め、様々な分野における中村先生の今後の研究成果に期待が高まりますね!

【筆者の一言】

この場をお借りして恐縮ですが、筆者も2015年頃から安土城天主復元に取り組んでおり、2020年に高校生対象の自由研究に出展しました。現在はこれまでの研究に基づく安土城天主の復元模型の完成を目指し日々作成に励んでいます。

筆者作成中の安土城天主復元模型

今回中村先生のご講演を聴いて、先生の復元考察の中でとても共感する点がありました。
まずひとつ目は1階土蔵の復元方法に関してです。
安土城天主台上部の北側の空間は他の側より広く(青線を参照)、つまり穴蔵は天主台の若干南寄りにあることがわかります。

上図は『国華』掲載安土城天主台実測図及び平成の発掘調査報告を参考に筆者が独自に作成した安土城天主台復元図。図は上が北。

また、天主台は南側の伝本丸と北側の伝二の丸・天主取付台の境目の段差部分に位置し、それゆえ南側石垣のほうが北側石垣より高さがあります。
そして、そもそも穴蔵は巨大な天主の重みを支える基盤としての役割があったはずです。これらのことを総合して検討すると、本来ならば天主の重量の大半を受ける穴蔵は、石垣がより高くて崩壊しやすい南側に寄せることなく、北寄りか少なくとも中央部分に配置するのが妥当であると思われます。それにもかかわらず穴蔵が南寄りに存在したということは、天主台北側は穴蔵を設ける必要のない区域であった可能性が高いということであり、つまり天主台北側区域にはさほど重量のない建物、例えば天主から張り出すように付設した付櫓状の建物(おそらく1階建程度)が存在したことを示唆しうるのではないでしょうか。
(※もちろん天主台に空地は存在しなかった(=天主台1階は多角形平面であり、土蔵は身舎に取り込まれていた)とする復元例も多く存在し、北側に土蔵の付櫓が存在しなかった可能性も十分検討する必要があると思われます。)

ちなみに筆者は付櫓説を採用しており、上の模型の写真のような復元を行いました。
天主台の平面形状は平行四辺形からその隅(写真の赤い三角形の部分)を切り欠いたような形状となっており、これは地山の形状に合わせて天主台を築いたことに由来すると言われていますが、そうして形成された不整形な形状にうまく天主を築きあげるためにこのような付櫓を設ける方法が採用されたではないでしょうか。

共感した点のふたつ目は、天主の母屋に相当する部分が各階同体で復元されている点です。安土城天主は、本来横方向に接続する御殿建築を縦方向に階層的に積み重ねた建築物ということができ、建物としての強度を確保するためには、通常の御殿建築ほど部屋割の自由が効かなかったはずです。特に梁や桁を力学的に問題の生じないように配置することができて、なおかつ上下階で柱筋がある程度揃うような部屋割を設計しなくてはならなかったはずであると思われます。
この点に関して中村先生の復元平面図では母屋が地上1階から3階まで同体であり、部屋割や柱筋が各階で整えられている所にとても信憑性を感じます。

ところで、室内の構造に関連して筆者としては1つ気になる点が存在します。安土城天主の内観を記した『安土日記』などの文献資料から、各階の室内東側あたりに存在したとされる座敷の規模を抜粋すると、

  • 1階:8畳敷、東12畳敷と縁、8畳敷、8畳敷
  • 2階:東8畳敷、12畳敷、8畳敷
  • 3階:東8畳敷、8畳敷、7畳敷(棚を含めれば8畳敷に相当)

というようになりますが、これから指摘できることとして、東側の座敷は各階共通して8畳敷の座敷が2〜3部屋存在する傾向があることが分かります(補足として東側の座敷の画題も上下階で似たテーマのものが登場する傾向があります)。
8畳敷がここまで連続するのは東側に限定的な特徴です。ちなみに西側では12畳や24畳に相当する大規模の座敷・広間が多く見られる特徴があります。このことから推測するに、天主の部屋割はやはりいくらか類似していたという可能性が浮かび上がって来るのではないでしょうか。

以上のことを視野に入れて、宮上茂隆先生案・森俊弘先生案天主復元平面図や「天守指図」に共通する、天主各階の基本の平面構造(下図)を部屋割の枠組みを参考に、そこに全ての部屋を文献に則って配置すると、

下の拙作の模型・図面のように、記録上のそれぞれの部屋がこの枠組みに自然な形で収まり、各階(左より1階、2階、3階)の部屋割・柱筋が類似したものとなりました。
もちろん筆者復元案もあくまで一つの例にすぎず、これが果たして合理的復元方法であるかについては慎重に検討される必要があると思われますが、このような天主の平面復元の方法も一考の余地があるのではないでしょうか。

第2部「天主復元の資料」について

第2部では屏風絵、日記、現存遺構といった、安土城天主の姿を探る上で重要な史資料に関する講演が行われました。

①「安土山図屏風調査の現状」新保淳乃先生

安土図屏風探索ネットワーク(ASRN)として活動されている武蔵大学の新保淳乃先生のご講演で、「安土山図屏風」の所在探索の過程と得られた知見の発表がありました。安土山図屏風発見を目指し現在も探索活動を継続されているようで、今後の調査結果の情報に期待が高まります。
狩野永徳が描いた「安土山図屏風」には、安土城と城下町が緻密に描かれたとされ、安土城の外観が記録された点で、安土城復元において重要な価値を持つ作品です。織田信長はこの屏風絵を当時のローマ教皇グレゴリウス13世に献上し、教皇はそれをバチカン宮殿に飾らせたとされますが、その直後に教皇が急死し、遺品整理で屏風絵がどこかに移されて以来、現在まで屏風の所在が不明となっています。

新保先生は屏風そのものはもちろんのこと、当時屏風を見た人々や、屏風に関心を持っていただろう人々のことを辿っていくという、先生の言葉で言うところの「しらみつぶし」の探索活動を通して、屏風や模写資料に関する情報を徹底的に調査されているようです。
今回のセミナーは未刊行報告書や内部資料によるものが多いため、これまで公表されている情報を引用させていただくに留めたいと思いますが、今回筆者が注目したポイントは以下の通りです。

  • 「安土山図屏風」が飾られたのはバチカン宮殿の「地図の画廊」だと考えられていたが、実際は「“世界”地図の画廊」であったか⁉︎
  • 財産目録やローマ通信に登場する興味深い記録
  • ウィンゲのスケッチは総見寺本堂を描いたものか⁉︎
  • 資料が整理される中で、屏風に関する資料が発掘される可能性も⁉︎

まず安土山図屏風が当初飾られていた場所について、ヴァリニャーノの『天正遣欧使節記』における記録には「その後、我々はガッレリーアと呼ばれる廊下に通された。これは大変心地の良い庭園へと続く教皇の私用通路である。(中略)多くの装飾が施されたこの場所に、教皇は 安土山を描き表わした板絵を設置するよう命じた。」とあることから、屏風は教皇の居室に接続し、庭園に面した私用の廊下に展示されたと考えられます。
これを根拠としてその廊下とはバチカン宮殿の「地図の画廊」のことであると考えられてきました。

しかし、地図の画廊はイタリア国内の絵が中心であったことから、安土山図屏風はそれ以外の廊下に展示されたと考えるのが妥当であると言えます。
ここで最も有力であるのは「世界地図の画廊」に展示されたとする説です。この画廊には異国の風景や地図を描いた絵画が展示されていたことから、安土山図屏風は当初この場所にあったのではないでしょうか。
1679年フランチェスコ・バルベリーニ家(歴代ローマ教皇の出身家系)の財産目録に、「一方には風景が描かれ、他方には地図が描かれた四面から成るリブレット型の衝立一点」という記録があります。また、ピネッリ旧蔵の1585年ローマ通信に、「日本王国の2つの重要な都市の様子を道路と建物を全て描いた杉材でできた2点の板絵」という記録があります。

新保先生はこの記録を安土山図屏風のこととして直ちに判断することはできないと仰っていましたが、それを安土山図屏風の記録と仮定するならば、筆者の個人的な見解として、前者は「風景、則ち安土山と、地図、則ち上空から見た安土城下町が描かれた、4面構成の対になるリブレット型衝立、則ち二曲一双の屏風」として、後者は「日本の2つの重要な都市、則ち安土山と安土城下町を描き、道路、則ち城下町の道路と、建物、則ち天主を含めた安土城主郭部の建築物を描いた、2点の板絵、則ち一双の屏風絵」として解釈することができ、両者の記録内容の類似点の多さからして、両者の記録が実は安土山図屏風そのものではないでしょうか。

そこでこの推定に基づき、先程の記録や、ウィンゲのスケッチ、シャルヴォア著書の安土の都市と城の挿絵、豊臣秀吉の城を描いた屏風及び同時期の様々な屏風を参考にして、安土山図屏風を独自に推定復元してみました(下図)。屏風がどの方角からの俯瞰で描かれたかは不明であることや、本当に屏風は二曲一双であったのかなど、いくつかの疑問点は残りますが、安土山図屏風の大まかな印象はだいたいこのようなものであったのではないでしょうか。

「安土山図屏風」推定復元概略図(筆者作成)。諸記録によれば、屏風は横幅1m弱の箱に収められて日本からバチカンへと運搬され、その後、屏風は木の板で裏打され、バチカン宮殿世界地図の間の天井か壁に展示されたと考えられる。

次にウィンゲのスケッチは安土城天主ではなく、総見寺の建物を描いたのではないかという可能性についてです。

ピニョリア『インドの神々の像』より「日本の神殿」

ウィンゲのスケッチに描かれたこの建物は安土山図屏風から模写されたものであるため、したがってこのスケッチが描くのは屏風で一番目立つ安土城天主の望楼部ではないかと一般的に考えられてきました。
しかし新保先生は、このスケッチが書簡において「山の頂上に建つ日本の寺院」と記述されている点に注目し、実は安土山にある寺院、すなわち総見寺を描いたのではないかという可能性を提示されました。そもそもこのスケッチが収録された書物には、建築物に関しては城郭ではなく寺社仏閣が収録される方が自然です。

また、このスケッチをよく観察してみると、安土城天主に存在したはずの鯱や高欄とおぼしき描写が見当たらず、さらに八角円堂の階は方形平面をしているように見え、最上階に至っては錣屋根で城郭建築というよりむしろ寺院建築の趣があるように思えます。
これらのことを考慮するに、ウィンゲのスケッチは安土城天主ではなく総見寺本堂の描写であるとも考えることができるのではないでしょうか。

ウィンゲのスケッチを総見寺と解釈した場合の推定イラスト。筆者作成

これが実際に総見寺本堂であった場合、上図のような外観をした建物であったように思われます。
最後に、「安土山図屏風」をはじめとした安土城天主の外観を描いた資料が発見される時が来るとしたら、それはどこから発見されうるのかという問題に関してです。
「安土山図屏風」が発見されることがあるなら、まだ未整理であるバチカン図書館の蔵書資料からか、バルベリーニ家の所有財産からか、またはバチカンにゆかりのある建物の所蔵品から発見される可能性があるように思われます。

また「安土山図屏風」の天主部分を模写した資料や屏風の下絵と試作品、あるいは天主を実際に見た誰かが描いた安土城天主のスケッチなどが国内外から発見されることがあるかもしれません。
例えば狩野家などの屏風絵師の家系に伝わる資料のうちに「安土山図屏風」の下絵に相当する資料が発見されるか、ウィンゲをはじめとした当時の東洋学者が安土城天主のスケッチ資料などを所蔵していた場合、その旧蔵資料が図書館や文書館、古本屋、骨董店、個人のコレクション等から発見されるという可能性もないとは言い切れません。

「安土山図屏風」発見を目指し、現在も新保先生をはじめとした研究者の方々が安土図屏風探索プロジェクト(ASRN)に取り組まれており、ご活躍と新たに飛び込んでくる二ュースに期待です。

②「文献資料に見る安土城天主」松下浩先生

松下先生のご講演では、安土城を文献史学の観点から確認するということがテーマとなっており、安土城築城から廃城までの期間における安土城に関する諸記録にはいかなるものがあるかご紹介がありました。
例えば、村井貞勝の安土城天主拝見記を下敷きにした『安土日記』や『信長公記』には、安土城天主の内観(主に座敷の広さや襖絵の画題)について客観的に記録されており、キリスト教宣教師の書簡には安土城天主の外観の情報が記録されています。そのほかにも多聞山城の高矢倉を安土城へ移築したとの記録が見受けられる「織田信長朱印状」、信用に足る資料であるかは大いに評価が分かれている、安土城天主の平面図とされる「天守指図」などが存在します。

【史料】安土城天主についての記録がある、『安土日記』天正七年正月二十五日条
御殿主ハ七重、悉黒漆也。御絵所皆金也。高サ十六間々中。天正五丁丑八月廿四日柱立。同霜月三日屋上葺合候。
上一重、三間四方、御座敷之内皆金、外輪ニ欄干有。柱ハ金也、狭間戸鉄黒漆也。三皇、五帝、孔門十哲。商山四皓、七賢、狩野永徳ニかゝせられ。
二重目、八角、四間ほと有、外柱ハ朱、内柱皆金也。釈門十大御弟子等かゝせられ、尺尊御 説法之所。御縁輪ニハ餓鬼共鬼共をかゝせられ、御縁輪のはた板ニハしやちほこひれうかゝせられ候。かうらんきほうし有
三重目、御絵ハなし。南北の破風に四畳半之御座敷両方在之、こやの段と申也。
四重目、西十二間ニ岩ニ色々の木を被遊、則岩之間と申候。次西八畳敷ニ龍虎之戦有。南十二間、竹之色々被遊、竹間と申候。次十二間、松計を色々披遊候。東八畳敷、桐ニ鳳凰。 次八畳敷、きよゆう耳をあらへは、そうほ牛を牽き帰る所、両人之出たる古郷之躰。次御小座敷七畳敷、でい計也。御絵ハなし。北十二畳敷、是ニ御絵ハなし。次十二畳敷、此内西二間之所ニてまりの木を披遊候。次八畳敷、庭子之景気也。御鷹の間と申也。
五重目、十二畳敷、御絵有、花鳥の間と申也。別ニ一段四畳敷、御座之間有。同花鳥之御絵有。次南八畳敷、賢人間、へうたんより駒の出たる所有。東麝香之間、八畳敷。十二畳、御門之上。次八畳敷、ろとうびんと申仙人杖なけ捨たる所。北廿畳敷、駒の牧之御絵有。 絵のふりたる所、是ふゑつの図と申。次十二畳敷、せい王母の御絵有。西御絵ハなし。御縁二段ひろ縁なり。廿四畳敷之御物置の御なんと有。口に八てう敷之御座敷在之。
六重目、十二畳敷、墨絵ニ梅之御絵を被遊候。同間内御書院有。是ニ遠寺晩鐘景気被書、まへに盆山被置也。次四てう敷、雉の子を愛する所、御棚ニ鳩計かゝせられ。又十二てう敷 ニ鵝をかゝせられ鵝の間と申也。又其次八畳敷、唐の儒者達をかゝせられ、南又十二てう 敷、又八てう敷、東十二畳敷、御縁六てう敷、次三てう敷、其次八てう敷、御膳を拵申所、 又其次八畳敷御膳拵申所、六てう敷、御南戸、又六畳敷、何も御絵所金也。北之方御土蔵有。其次御座敷廿六畳敷、御なんと也。西六てう敷、次十七てう敷、又其次十畳敷、同十二畳敷、御なんとの数七つ。此下ニ金灯爐つらせられ候。
七重目、以上、柱数二百四本。本柱長さ八間、本柱ふとさ一尺五寸四方、六寸四方、 一尺三寸四方木。狭間戸数戸六十余有。何れも鉄ニ黒漆也。
七重之御構、高く青漢の内に挟ミ、棟梁遙に秀て、四面之椽悉金物有。瓦のこくち金銀を以 てみかき、ひうちほうちやくをつらせられ候。白霧之間ニ挑、金銀空に輝き、詞にも難尽筆。 御大工岡部又右衛門、御普請奉行ハ木村二郎左衛門、漆師首ハ刑部、白金屋首ニ宮西輿六、 瓦ハ唐様に、唐人之一官ニ被仰付被焼候。瓦奉行小川孫一郎、堀田左内、青山助一也。御細工請取数多在之、致見物生前思出、忝次第中々申ハ愚候。

【筆者の一言】

安土城天主復元を行う際、様々な文献資料の信憑性を確認していくこととなりますが、筆者が個人的に気になった諸資料の注目点を挙げていきたいと思います。

・「天守指図」の信憑性

「天守指図」(『國華』第987号 安土城の研究(上)朝日新聞社 1976年より引用) 

「天守指図」は宮上先生以降信憑性が疑問視される場合が多いですが、筆者の個人的な見解としては、「『天守指図』は全体としては後世の創作資料、すなわち江戸時代に作成された安土城天主復元案の1つであるが、指図を構成する部分的な要素には真性な原資料を参考に写し取った痕跡があり、その部分のみ信用に足る」です。
(※一般的に「天守指図」の信憑性はかなり疑問視されているので、当説に関しては慎重な検討が必要であると思われます)

まずそもそも、『天守指図』における疑問点としては、先行研究の中ですでに数多く明らかにされていますが、主要な例を挙げるならば、信憑性が確認されている『安土日記』や『信長公記』における座敷の記録と「天守指図」における座敷の記録が適合しない箇所が数多く存在すること(具体的には「天守指図」では本来部屋の広さが「12(=24畳)」だが、誤って「12」として作図されている箇所があるように、一部の大広間の広さの単位を見誤り、実際の部屋の半分の広さの部屋を作図してしまっている箇所や、生じた余計な空白を埋めようとしたのか本来より若干広い座敷が作図されている箇所が存在すること)や、本柱の構造的欠陥があることや、窓の配置箇所の偏りや不足が存在すること、実際に存在したならば文献史料に必ず記録されるはずなのに、記録が全く見られない橋や能舞台及び宝塔を備えた吹き抜けが作図されていることなどが挙げられます。

このように「天守指図」は完全なる真性資料では到底ないと考えられますが、その一方で「天守指図」の地下一階部分は偶然とは思えない不思議な一致が見受けられます。
例えば「天守指図」地下1階部分のうち、赤線と青線は、向きを変えたり反転させたりすると、実際の天主台の穴蔵石垣のラインにほぼ揃います。この線は実際に天主台を実測して作成されたものである可能性も考えられますが、むしろ「天守指図」作成時、安土城天主地階に関する図面として伝来する資料が手元に存在したが、地階穴蔵周囲の石垣を表す記録だとは突き止められず、このように誤った作図がなされたという背景があったことを裏付けるのではないでしょうか。

「天守指図」いしくら(上)と内藤先生による安土城天主台実測図(下)。それぞれ『國華』第987号 「安土城の研究(上)」朝日新聞社 1976年より引用。赤・青線は筆者の加筆

天主台の天端ラインに関しても、天主焼失時に天主台石垣上部が崩壊し土砂に埋もれていたため、後世に至ってはその詳細がかなり不明瞭であったのにも関わらず、ある程度正確に記録されている点も見逃すことができません。
このように「天守指図」はほとんどの要素が後世の創作である一方で、一部の要素には信用性のある何らかの資料が下敷きにされているように思えます。

なお、筆者自身は「天守指図」の各階で共通する天主の平面的基本構造に信用性を見出し、その枠組みを元にして文献資料通りに座敷や納戸をパズルのように配置していくことで、安土城天主の平面を復元していきました。
果たして「天守指図」はどの部分に限っては天主の実像に近いか、はたまた全く実像とは異なるのか、この点は天主復元研究の際に慎重な判断が必要な問題であることには違いがないでしょう。

・日記資料

『安土日記』や『信長公記』における安土城天主内観の描写の中で気になる点として、それらの資料に登場する謎の文言(①〜⑥)の意味について注目し検討していきたいと思います。
①「石くらの高さ十二間余りなり。石くらの内を一重土倉に御用ひ、是より七重なり」
②「西は六でう敷、次十でう敷、又其の次十でう敷、十二畳敷。御南戸の数七つあり。是の下に金灯爐置かせられたり。」
③「北廿畳敷。駒の牧之御絵有。絵のふりたる所。」
④「口に八でう敷の御座敷これあり。」
⑤「御小座敷七畳敷。でいばかりにて、御絵はなし。」

①は天主台や地階に関する記録ですが、前半を直訳すると「12間余りである」となります。しかし、天主台の高さは7尺間(1間を7尺とする単位のこと)でおよそ6間程度であると思われるため、穴蔵の高さがそれを上回る12間強となるのは明らかにおかしいです。この点に関して、個人的には「石くら」は「石垣」や「石積」のことではなく、「石で作られた蔵」、すなわち天主台のうち地階穴蔵を囲む周囲の石垣のことで、さらに単位の「間」は「尺」の誤記と思われ、「天主台地階の石垣の高さは12尺強(12尺と礎石の厚みの数寸を合わせた高さ)である。」ということを示していると推定します。

このように、石くらを天主台ではなく地階の石垣と考えることで、「その内部を土倉として用いた」というその後に来る文との繋がりも自然で、さらに12尺という高さについても、礎石上から1階の床の高さまでを丁度2間(14尺)とするために設定されたと推定することができるのではないでしょうか。また、後世の天守の穴蔵から判断しても、12尺という高さは妥当であると思われます。
(ただし『信長公記』のみに見られるこの文は、太田牛一による信憑性が怪しい加筆とする説もあり、慎重に検討する必要があると思われます)

②は天主地上1階の記録の一部で、「10畳敷に続いて同じく12畳敷が存在する」と記録されていますが、部屋の広さが異なる以上、何を以て「同じ」と判断したのかが疑問です。このことに関して筆者は、当記録が1階の記録の最後にあることから、天主1階を一周し、再び以前拝見したのと「同じ」12畳敷に戻ってきたことをもって1階の記録を全て終えたということを表そうとした文であると推定します。

また、その後の文の「納戸の数が合計7つ存在する。その(納戸の)下には金灯籠を置いている。」という文がありますが、1階に存在した納戸の真下(=地階)に金灯籠を設けたと解釈すると、なぜ座敷を除外しあえて納戸の下にのみ金灯籠を設けたのかが謎です。
この点に関して筆者は、当該記録は1階ではなく、むしろ安土城天主の全ての階の総合的記録であり、各階に同様なパターンで存在する特筆すべき納戸の合計が7つであったと解釈することが可能であると思われます。

そしてその場合、それぞれの納戸のもとに金灯籠が設けられたのは、それらの納戸が光が入りにくい暗所に存在したことを示唆し(ちなみに暗所にあるという点で、それらの納戸は二条城二の丸御殿でいうところの暗がりの間に相当するのではないでしょうか。)、さらにこの納戸の面積分を加えることで、天主台の大きさに比べて各階の部屋の総面積が記録上若干不足しているという問題を解決することが可能で、その納戸を各階どれほどの面積で設けるかによって、部屋の総面積が2階より3階の方が広いという記録上の不思議な現象を解決することができるのではないでしょうか。

③は天主地上2階の記録の一部で、「絵のふりたる」とは何を意味するか不明です。「ふる」という動詞から考えられる訳として「絵が古びている所」や「絵の入れ替えた所」などがありますが、どちらも文脈や意味的に不自然さが拭えません。この文言に関して森俊弘先生は「振り」曲がったL字型の部屋と解釈されています。
なお、試しにこの座敷をL字型として設定すると、筆者独自の2階復元平面図上に部屋割を整然と収めることができ、ふりたる座敷(下の画像のうち赤線で囲った座敷)と、その上下の階で同位置に存在する座敷(青線で囲った座敷)の柱筋と綺麗に揃いました。

④は八畳敷が口に存在した、とありますが、「口」とは果たして何でしょうか。文献では小屋の段(屋根裏階)のくだりで「破風口」との用例があることから、口とは通例通り何かしらの出入り口のことを指す可能性が高いと思われます。
ただし「口」が何の出入り口の用途か不明です。想像するならば、口とは出窓への出入り口や、二段広縁への出入り口、上下階に接続する主要な階段口などのことであったと考えられるように思います。

⑤に関しては、「でいばかり」が気になります。「でい」とは泥のことであり、通例では金泥のことを指すと考えられます。ただし、座敷の襖が金箔貼であるという特徴は安土城天主のほぼ全ての座敷に当てはまることであり、ここではどうして特記事項として記録されたのでしょうか。
この点に関しては、でいばかりの7畳敷の座敷が存在した階(地上3階)は、その座敷を除いたすべての座敷の襖には絵が必ず描かれており、したがってそれぞれの座敷には画題の説明が記録されるものの、絵がない7畳敷には記録することがなく、そこに文章上違和感が生じると考え、ひとまずこのような説明を付しておいたという可能性も考えられます。

しかし、この座敷が中途半端な「7畳敷」という広さであること、そして「でい」という記録が併存することを考慮すると、この座敷は1畳の分を床の間が占めた8畳敷の座敷で、壁は泥ばかり、すなわち土壁ばかりであったと考えられ、こうした特徴からこの座敷は茶室であったと推定することも可能であるのではないでしょうか。

・宣教師の記録

宣教師の記録では主に安土城天主外観・内観の色彩が主要トピックとして注目されていますが、色彩に関する箇所を抜粋するととても興味深い発見があります。

・フロイス「日本史」

内部の彫刻は悉く金で、甚だ巧みに色彩を施してあり、外部は各層違った色で塗り、或は白色で、日本風に黒漆を塗った窓を備え、或は、またはのがあり、最上層は金色である。この塔もその他の家屋も、皆世界中で最も堅牢なる青い瓦で覆い、その前面には金をかぶせた円形の頭がある。(中略)建物は悉く木造であるにもかかわらず、内外ともに石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。」

・シャルボア「日本史」

外部では、(中略)日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。

・天正8年書簡

「足を置くべき床は、天井と同じく、清浄にして磨きだし、戸および窓は塗りて、鏡に対するがごとく己の姿を見ることを得べし。壁は、頂上の階の、金色と青色を塗りたる外は、悉く甚だ白く〜」

・天正9年年報

「建物は悉く木造であるにもかかわらず、内ともに石及び石灰を用いて造ったものの如く見える。」

まず、青文字を注目していただくと、ほとんどの資料で色彩の記録が天主外観のことを指していることが明らかで、外観とは明示されていない天正8年書簡の該当箇所も文脈的に外観の描写であることが確実です。
そのことを前提に考えると、外観の特徴として瓦は「青」く、瓦当には金箔が貼られ、壁は「白」や「石灰」とあるように白漆喰塗、窓や戸は「黒い漆」や「鏡」とあるように黒漆塗、他にも最上層などは「金」や「朱」や「青」色で塗られていたと考えることができます。

ただし、瓦が青色の(azul)ようであったとの記録があることには注意が必要です。安土城の発掘調査では釉薬青瓦は発見されておらず、青瓦の存在は相当疑問であり、青みがかった瓦が若干発見されているのみです。
このことから、青瓦という訳語は、漢詩などで建築物の美麗さ(特に瓦の美しさ)を喩える言葉である「碧瓦朱甍」のうちの「碧瓦」を指すと考えるのが正しいと思われ、したがって安土城天主の瓦は通常よりわずかに青みのある灰色の土瓦であったと考えるのが妥当でしょう。

なお、南化玄興(なんかげんこう=臨済宗の僧)が安土城を「碧瓦朱甍」として褒め称えているように、宣教師と同伴した織田家の家臣も瓦の美麗さを比喩的に「碧瓦」と伝え、宣教師はその言葉をただ直訳して記録した可能性もあると思われます。
(他にも灰色の反対色(黄色や金箔など)を同時に見た時の錯視で瓦が青く見えたのか、瓦が青空を反射して青みがかったのか、当時のポルトガルにおける色彩感覚的に瓦の色は青色に含まれたのか、という様々な可能性も考えられます)

また、外壁に関して、金や青や朱で塗られていたとされる望楼部以外は総じて白色であると記録されていることから、壁は基本的に白漆喰総塗籠であった可能性が高いと思われます。
安土城天主の先行復元研究では岡山城や大坂城、松江城といった黒壁の天守が参考にされてきたため、外壁は下見板張で黒漆塗として考えられることが多かったのですが、宣教師の記録を根拠に白壁である可能性が見出せると思われます。

筆者案安土城天主南面復元立面図(初公表最新版)。宣教師の記録の通り、外壁は白壁とした。

そして窓は国内の文献史料と同じく黒漆塗とあるため、黒漆塗突上戸と考えられます。
なお「内部の金彫刻」とは釘隠などの金具のことと思われ、また、先ほどあげた史料とは他の史料の記録にある「多種の木像」とは欄間彫刻、「内外のモザイク」とは格天井及び木連格子、「怪人面」とは鬼瓦、「薔薇又は花に金」とは瓦の巴紋が金箔張であったことを示していると推定できるように、いくつかの史料には天主の部分的な装飾が明らかになる記述が含まれている場合があり、この点も安土城天主の実像を研究する上で重要であると思われます。

さらに、本能寺の変の際の記録において、「彼はただちに信長の居城と館を占拠し、最高所に登り、 信長が財宝を入れていた蔵と広間を開放すると、大いに気前よく仕事に着手し、 まず彼の兵士たちに、ほとんど労することなく入手した金銀を分配した。」とありますが、この記録から、「最高所すなわち天主に存在する蔵は財宝保管庫であった」と判明するように、天主の装飾だけではなく用途まで明らかになる記録が残っているのは貴重です。
(なお、金銀などの財宝が天主に保管されたというのは豊臣大坂城天守も同様であったとされ、安土城とほぼ同時期に築かれた天守は対面や接待の場であるのと同時に財宝庫という役割も担ってたように思われます)

③「昭和の天主跡発掘調査成果」仲川靖先生

仲川先生のご講演は昭和期に実施された安土城天主の発掘調査に関してです。先生がご講演の中で強調されていたのは以下の2点でした。

  • 日名子元雄氏の文化財に対する優れた姿勢
  • 昭和の発掘調査の問題点や情報不足

初めて安土城天主台の詳細な調査が行われたのは戦時中の昭和15〜16年にかけてのことでした。当時の金額で910円もの経費を費やし、学務部社寺兵事課の日名子元雄技師が中心となって天主台発掘調査が実施され、その成果と天主台整備の内容が報告文書として残されました。
しかし、安土城天主台の発掘調査は日本国内で非常に初期の事例であり、なおかつ戦時中の校閲により記録として残せる内容は限られており、それらのことを考えると、とても苦労の大きかった調査であったと言うことができるように思われます。

なお、天主台を発掘の指揮をとった日名子元雄氏は建築物を専門とされ、戦時中の金属回収令が盛んに出される中、回収令が出された梵鐘を保存する運動を行い、数多くの回収令の除外認可を出したというように、文化財の保存に必死に努めた功績があります。しかしその結果軍部に睨まれ、戦地に非常召集されることになったものの、無事に復員し戦後の文化財行政を担いました。
発掘調査の方法については、現代から見ればいくつかの大きな問題点が見受けられます。

昭和の発掘調査時に作成された平面図と遺構の写真。

例えば、天主台の写真や図面の収録数が極めて少なく、文章だけでは遺構の状況が不明瞭な点があったことや、崩壊した石垣の修復は具体的にどの範囲のことで、どこまでが当時の遺構であるか不明な箇所が存在すること、そして、叩き漆喰が存在したと記録されるがその詳細が記録されなかったことなどが挙げられます。
 また、天主穴蔵中央部ピットに関してはその形状から掘立柱の穴ではないと推定されました。事実、宝永2年2月の「仁正寺太守代々登山記録」において、天主(台跡)見物が行われたことや「天主卵塔」(無縫塔とも呼ばれる、仏塔または墓石)の存在が記録されています。

【筆者の一言】

天主穴蔵中央部ピットは果たして一体何の目的のために設けられたのでしょうか。昭和平成の発掘調査において、ピットの中からは壺破片が発見されています。これは卵塔の建立に伴って埋蔵されたものであると考えられることから、中央部ピットはこの時に手を加えられたことは間違いないと思われます。
ちなみに、「天守指図」には穴蔵中央部ピットの部分に宝塔が描かれていますが、これは天主焼失後、天主台中央部に仏教的施設が存在していたという情報を元に推定的に描かれたものであるようにも思われます。

しかし、中央部ピットは天主焼失後に若干手が加えられたものの当初から存在していた遺構である可能性が考えられます。
例えば中央部ピット内部から天主の部材であったと思われる木片が検出されていることは、焼跡整理で片付けられることのなかった残存木片が埋没して残されたという可能性が考えられ、したがって中央部ピットが天主焼失以前から存在したものであると推定することができます。その場合、このピットは全長8間の掘立式の本柱の遺構であり、ピットの形状の曲がりや傾きは天主焼失時に本柱が倒壊した際にえぐられた痕跡であると思われます。
中央部ピットには様々な解釈の余地があると思われますが、果たしてその実像はいかなるものであったのでしょうか。

④「平成の天主跡発掘調査成果」岩橋隆浩先生

平成の大調査における天主台発掘では穴蔵と石垣北西隅角部、北面、西裾部(二の丸東溜)を対象に調査が行われました。
天主台穴蔵の調査では、まず当時の床面の状況が調査され、その結果平成の発掘調査でも昭和期の発掘調査で叩き漆喰と推定されたと思われる地表面が再検出されました。しかし残念なことに叩き漆喰は穴蔵地表面の一部にしかもはや残存せず、その他の部分は造成土や安土山の岩盤が露出していています。
この理由としては昭和期に発掘された穴蔵地表面の土砂が少しずつ流出した可能性が考えられます。事実として、平成期の発掘調査の際に撮影された穴蔵の写真と昭和期の発掘調査の際の写真を比較すると、平成期の方がより礎石の側面が露出していることが判明し、穴蔵地表面が若干低くなった可能性が考えられます。

平成の発掘調査の際の穴蔵(上)と昭和の発掘調査の際の穴蔵(下)

ただし、穴蔵床面に叩き漆喰が実在したかについては一考を要します。
例えば叩き漆喰の地表面は表面の凹凸が非常に激しい一方、叩き漆喰以外の地表面は非常に硬く平滑であるため、後者の方がより地表面にふさわしいと思われます。また、科学分析の結果叩き漆喰に含まれるはずの石灰等のにがり成分が特徴的に検出されず、そもそもそれ自体が叩き漆喰ではない可能性が考えられます。

穴蔵の礎石に関しては、7尺おきに据えられていることから天主が「7尺間」で建てられていたことが判明しています。また、礎石は碁盤の目状に穴蔵のほぼ全ての範囲に設けられていました。
ただし、穴蔵は平行四辺形状に歪んでいるため、穴蔵縁辺部では東西方向の柱間が若干狭い箇所が存在します。なお、通常の礎石に加えて22個の小型礎石も発見されましたが、それらがある場所に規則性はなく、被熱痕があまり見られないことが多いことから、当時から存在していたものであるのか判明していません。なお、礎石の上には30〜40cm四方の方形被熱痕が残り、天主の柱の痕跡であると考えられています。
(ちなみに筆者が安土城に訪問した際に、天主台礎石に残る柱痕らしきもののを実際に計測した所、全てがちょうど30cm四方(1尺四方)でした)

昭和の発掘調査で発見されていた天主穴蔵の中央部ピットに関しては、再び土砂を取り除き調査した結果、深さが1.1mの底面は岩盤層に到達し、穴の壁面は北側を除きほぼ垂直であったとのことです。
この穴は昭和の発掘調査の際には掘立柱である可能性は低いとされたものの、こうした調査結果から掘立柱の跡である可能性も視野に入れられることとなりました。また、それと同時に天主台が栗石基礎ではなく、自然の岩盤の地形をうまく利用することで築かれたということが明らかとなりました。

天主台北西隅角部では崩壊した石垣石材や土砂を除去すると高さ3m程度の隅角の鎬積が検出されました。ただし石垣や石材に被熱の痕跡は見受けられず、天主は北側に倒壊していなかった可能性も浮上しました。
一方、天主台西裾(二の丸東溜)からは、激しい火災の痕跡や天主の瓦の破片に加え、天主倒壊時に押し潰された建物の痕跡が発見されました。天主台に密接して礎石が存在していたり、小さな束石や土壁、柱の焼け跡が見受けられたりするなど天主台西裾の建物には数多くの考古学的資料が残存していたことが明らかとなりました。

そして最後に、現在残された課題として平成の発掘調査では未調査であった天主台北側の詳細が不明であることや、穴蔵中央部のピットや天主台西裾部の遺跡は何を表すか、そして天主礎石に残る柱の跡らしきものは実際に柱の跡であるかなどを検討していくことが挙げられ、令和の発掘調査が開始されようとする現在、遺跡の保存活用と保護の両立をいかに実現するかという問題も検討していくべきと話されていました。

【筆者の一言】

岩橋先生の講演の中で取り上げられた内容の中で以下の点について個人的な考えを述べたいと思います。

・安土城天主台に関する解釈

日本国内の城郭の天守台においてあまり類を見ない安土城天主台の特異的形状をどのように解釈するべきでしょうか。
まず、いびつな7角形平面形状に関しては、北西と南東に鋭角のできる平行四辺形から南西角以外の角を切り欠いたことによって生じたと解釈することができます。この切り欠きは天主台麓の曲輪の形状や建物の配置に制限や影響を受けたためか、天主台隅部の崩壊を防ぐためのものであると解釈することができると思われます。
なお、天主台の形状は後世の諸城郭の天守のように天守建物の平面形状をそのまま反映する整った形状であるというよりは、むしろ曲輪のように自然地形を反映した形状であるという見方をすることができ、この形状の成立過程からして安土城天主台は1つの曲輪でありながら、なおかつ実質的な役割は天主台であるという二面性を備えているのではないでしょうか。

また、天主台の性質からして、天主の正面はどの方向であったかという点に関して、天守建築を含めた日本の木造古建築は基本的に平側が正面で、平入(妻側ではなく平側に建物の出入口が設けられること。
すなわち長方形の平面形状を持つ建物の短辺側ではなく長辺側に出入口が設けられるという特性)であることから、安土城天主台については、東側に入り口が設けられており、また、天主建物の長辺が南北方向であったかについては、南北方向と東西方向で全長が等しい穴蔵からは推定することができませんが、天主台上部平面は東西方向より南北方向の方が長いことから天主台建物も南北方向に長かったと考えられ、正面である平側は、南北方向に辺が伸びる西面・東面と考えることができると思われます。

ただし、礎石列は天主台南面と北面の石垣を基準としてそれに平行するように据えられており、それゆえ南側か北側から天主を眺めた場合、天主建物と天主とでそれぞれの面が揃っている印象を受け、天主台の特有のいびつさが目立たず美麗です。それに加えて、安土城主郭部や家臣邸に残る礎石列の方向から判断して、安土城大手門方向から見て各建物が扇状に配置され、大手道からの見栄えが意識されていることが確認できます。
このことから安土城天主は南から眺めた際の姿が意識されていたと思われます。したがって、南面及び北面に建物の正面である平側が来る場合も想定することができると思われます。例えば、宮上茂隆先生は南面北面が平側になる形で天主を復元されています。

左:平入概略図 右:妻入概略図。赤矢印が入り口で青線が建物を表す。図は上が北。

2つの可能性が考えられる中、個人的に筆者は後世の天守の建造方法として比較的一般的な前者の説を採っています。
この場合、天主から見て西側にある城下町および伝搦手道からは天主の正面の優美で伸びやかな容貌が見え、正式な通路であると考えられる伝大手道の方向からは正対する天主台石垣とそこに聳え立つ威厳のある天主が見えたことでしょう。

・赤瓦について

天主台付近から発掘される瓦は火災における灼熱の影響を受け灰色から赤色に変色しているものが多いですが、安土城天主に用いらた瓦の中に当初から赤瓦であったものは存在するのでしょうか。
赤瓦に関する記録として「安土山ノ記」には「碧瓦朱甍」とありますが、勿論これは天主の写実的描写というよりは典型的な美辞麗句であり、赤瓦の根拠とはならないと思われます。その上、天主外観の色彩の豊かさに注目した宣教師の記録の中に、実際に存在したなら必ず記録されたであろう赤瓦が葺かれたとする記録が全く存在せず、この点からも赤瓦の存在には疑問が残ると言えるでしょう。
しかし、その一方で発掘された赤瓦には橙色のものと濃い赤色をしたものがあることや、滋賀県大津市埋文調査センターによる調査の結果、近隣の大津城には赤瓦が用いられていたことが明らかになったことを検討するなら、赤瓦が存在しなかったとは完全に言い切ることはできないと思われます。この問題の解決には「安土山図屏風」の発見を待つほかないでしょう。

・天主台西裾部の建物について

発掘調査の結果検出された礎石列。(配布資料より引用)

天主台西側南端(いわゆる伝二の丸東溜)に2列の礎石について、これまで千田嘉博先生や佐藤大規先生は懸造の遺構として解釈され、三浦正幸先生や中村泰朗先生は階(きざはし)として解釈されました。
筆者の個人的な意見としては、礎石が天主台の下端に密接し、礎石のスパンが短く密集していることから、天主台に寄りかかるような形で接続する建物が存在したのではないかと考えています。
また、平成の発掘調査では未調査であった箇所からこの礎石に連なる礎石が新たに検出される可能性があり、今後の調査に期待が高まります。

第3部「パネルディスカッション」について

第3部のディスカッションではまず中村先生の安土城天主復元研究について取り上げられました。
中村先生は、復元には再建的復元と図面上の学術的復元のふたつの定義が存在することを示され、研究者として前者の復元のロマンを感じられつつも、現実的に後者の復元を目指されているとのことでした。また、現在の研究の熟度は7割程度と仰っており、学会発表やインターネット上などで指摘された一部の問題点を修正したことによって、平面図の熟度は高いものの、軒の高さなど立面的な構造についてこれからより一層詳しく検討を進めていきたいとのことでした。

中村先生は近年安土城天主の架構に関する学会発表をされていることからも、現在復元成果の綿密な検討を進められていることがわかりますね。
最後に、安土城天主復元では建築学と考古学の両分野で議論を進めていくことが重要であると提起され、これから行われる発掘調査では調査結果を建築学的視点で観察することによって得られる知見に期待を寄せられています。

発掘調査に関連して仲川先生は、昭和期の天主台発掘調査において、天主台は単なる建物の基礎にすぎないという考え方があり、記録の仕方も不備や不足が多く、本来なら得られたはずの重要な情報が記録として残されなかったことは惜しいと仰っていました。
一方、岩橋先生は平成期の発掘調査に関して、発掘調査の記録は詳細に残されたものの、礎石の柱跡や、二の丸東溜の建物はどう接続していたか、炭化材は何の木であるかなどを考える際、建築学的視点が考古学的調査に必要であったのではないかと仰っていました。

ここまでの話を発展させ、中村先生は天主はひとつの独立的な建築物ではなく主郭部に存在するそれぞれの御殿が持つ役割の総体から天主を捉え、その関係性の中で天主の役割を把握し、それを通して天主の実像を探るべきであると話をまとめられていました。

続いて新保先生の屏風絵探索のトピックが話題に上がり、ウィンゲのスケッチの原本はブリュッセルの収蔵庫に保管されている可能性があるが、膨大な資料の整理が未完であり、発見を気長に待たなくてはならないことや、メルボルン大教授で安土城天主を研究されている先生はウィンゲのスケッチが描いた建物は天主ではなく摠見寺であると考えられていることを紹介されました。
また、新保先生は安土山図屏風が現存しないことは証明できない以上、調査を断念することなく、身近な所から一つ一つ気長に探索を進めていくべきであるとお考えで、屏風絵探索に今後も全力を尽くされるとのことでした。

そして最後に令和の発掘調査に向けて、木戸先生と中村先生は安土山全体の実像を掴むための調査を進めていきたいとのお考えを示され、さらに中村先生は天主台北側から金具や炭化した柱などの考古資料が発見されることを期待されて、パネルディスカッションの部門は終了しました。

終始会場が笑いに包まれるような和やかな雰囲気の中でのディスカッションで、先生方が現在考えられていることをお聴きすることができ、とても充実した時間であったと思いました。

まとめ

以上が今回のセミナーのレポートです。

今回のセミナーに参加して、これまで知らなかった最新の調査や研究成果、そして論文では得られない先生方の研究秘話を聞くことができ、非常に有意義な経験となりました。このセミナーを通じて、安土城研究へのモチベーションがさらに高まり、将来的には大学教授として、安土城を含む織豊系城郭に関する研究に取り組む夢も一層熱くなりました。

また、現在筆者は早稲田大学城郭研究会を立ち上げ、城跡巡りなどの活動を行っております。安土城研究に関しては「安土城天主研究」という名前のnoteやYouTubeチャンネルを通じて、現時点での研究成果をまとめ発信しています。ご興味を持っていただけましたら、ぜひご覧ください。

早稲田城郭研究会:https://twitter.com/waseda_Jokaku

note:https://note.com/mataemon_sugoina/

YouTube:https://www.youtube.com/@Azuchicastle

日時:2023年3月25日(土)10:30〜16:30
会場:コラボしが21 (滋賀県大津市)
主催:滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
参加費:無料 

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