攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

豊臣秀次 の検索結果:

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…将・三好秀次(のちの豊臣秀次)が小牧山城の東を南下して岡崎を目指したという、いわゆる「三河中入り作戦」を決行します。その情報を逐次入手していた家康は、徳川先遣隊を編成して差し向けておきながら、家康自身も出陣して南下作戦を阻止します。いわゆる岩崎城の戦い、白山林の戦い、桧が根の戦い、そして長久手の戦いです。この戦いで家康軍は池田恒興・元助親子、森長可を討ち取り、勝利を収めます。すると信雄と家康は全国の諸大名に手紙を送り、秀吉に勝利したことを大々的に喧伝したのです。勢いに乗る秀吉…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…年)、54歳 7月、豊臣秀次が高野山へ追放、切腹(秀次事件) @自ら切腹したのか、秀吉の命によるものかは諸説あり 病の秀吉が起請文を提出させる 秀頼を頂点とした体制の構想=在京を原則とした体制=室町幕府を踏襲 →江戸幕府が当初、豊臣政権ほどの支配力がなかった証拠か 1596年(慶長元年)、55歳 秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は「江戸の内府(だいふ)」と呼ばれる。 1597年(慶長2年)、56歳 再出兵、慶長の役 1598年(慶長3年)、57歳 8/18、秀吉死…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…田信長・信忠・信雄、豊臣秀次、福島正則らが城主を務めました。清須城は五条川を貫通するように築かれた河川を利用した城でしたが、それと同時に低湿地帯でもあったために洪水などの被害に悩まされていました。さらに1586年(天正14年)には天正地震によって液状化現象が起こり、地形の弱さを露呈していました。先にも述べた通り、家康は関ヶ原の戦い以降に実子を清須城に入城させますが、このような理由により城の移転を模索していたのかもしれません。そこで白羽の矢が立ったのが名古屋の地でした。現在の名…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…は後継者に選んだ甥の豊臣秀次を実子・豊臣秀頼の誕生後に失脚させて殺すなど、晩年には失政が目立ったのも事実だ。そんな彼は死に際して豊臣政権の要である五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…者に据えた甥で養子の豊臣秀次を、実子の秀頼誕生後に排除してしまうなど、晩年には失政が目立った。これらが遠因となり、秀吉の死後に諸大名の対立が激化。1600年(慶長5年)、五大老の一人である徳川家康が、同じく五大老である会津の上杉景勝を攻める軍を挙げ、その隙に五奉行の石田三成が中央で挙兵する。「関ヶ原の戦い」の始まりである。 この時、真田氏は当主の昌幸、嫡男の信幸、次男の信繁の二人ともに、家康に従って上杉攻めの軍に加わっていた。しかし、そこに石田三成挙兵の知らせが届き、三者は家…

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…家康に傾倒していた。豊臣秀次の側室になったばかりの自分の娘が秀次事件に連座して処刑されると、家康への傾倒はより一層強くなり、秀吉死後の「関ヶ原の戦い」では上杉方の直江兼続の部隊と戦い、これを破った。 この関ヶ原の戦いでの功績が認められ、57万石の領地を安堵された義光によって成立されたのが、山形藩である。義光は山形城の築城や城下町の整備などに取り組み、特に治水工事に力を尽くした。しかし1613年(慶長18年)頃から義光は体調を崩し、寝こむことが多くなった。死期を悟った義光は、最…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…2020年4月4日 豊臣秀次とよとみひでつぐ 豊臣秀次 八幡山城 村雲 瑞龍寺(滋賀県近江八幡市) 神社・寺院 不明 武将印 書置き(印刷) 豊臣秀次とよとみひでつぐ 豊臣秀次 販売終了 神社・寺院 不明 武将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm スタンプラリー参加者景品 石田三成いしだみつなり 石田三成 石田会館(滋賀県長浜市) 店舗 不明 武将印 直書き、書置き(直書き) 毛利勝永もうりかつなが 毛利勝永 長浜おもてなし武将隊 不明 武将印 書置き(印刷) …

【戦国を彩る名軍師たち】占いで活躍した軍師? 閑室元佶

…され、続いて接近した豊臣秀次(秀吉の甥)も政争に破れて死んでしまった。そこで家康の庇護下に入った、というわけである。元佶は「関ヶ原の戦い」において陣中の家康に付き従い、合戦日時の吉凶を占った、という。 この点以外にも家康と元佶の信頼関係は深く、元佶は家康の要請を受けて伏見に足利学校の分校というべき施設を作っているし、「関ヶ原の戦い」後に徳川幕府が成立すると、幕府の宗教政策などに深く関わるようになっている。 占いというのはなかなか軍師のイメージとは結びつかないかもしれないが、神…

戦国末期の駿府城の瓦について

…遠江で中村一氏と同じ豊臣秀次配下の大名(関白様御家中衆)による同時期に織豊化された城郭においては、石垣の使用は城外から見える主要部のみと部分的なものである(吉田城は未完成)。また、これらの諸将は名護屋在陣・朝鮮出兵は免除されたが、大坂城普請などを担わされている。『駒井日記』文禄3年正月20日・正月23日条には大坂城普請において、中村一氏は三千人を動員することを命じられた記述がある。三の丸で新たに発掘された武家地・道跡や天守台の石垣の規模を見るに、中村一氏が大規模に造成した余力…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…高でしたよね。 また豊臣秀次がたんなる愚鈍な人間ではないことが描かれたのも印象的でした。 「ずっと気になっていたのだが、『譲り渡す』にせよ、『奪いとる』にせよ、それは沼田城が真田の城であることを、暗に認めていることにはならないか。もともと北条のものであるなら、『取り返す』『奪い返す』というべきである」という指摘は視聴者もうならせるだけの説得力がありました。 「沼田裁定」の結果(裏で三成が昌幸に嘆願したこともあり)、沼田城は北条に引き渡されることになりました。昌幸の機転で名胡桃…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…諸説あり)。側室には豊臣秀次の娘のほか、堀田興重の娘(『真田丸』では「梅」)、高梨内記の娘(『真田丸』では「きり」)がいます。 ほかにも農家の娘と子どもをつくってたりもするんですが、『真田丸』ではどこまで描かれるのか後半のドラマがいまから楽しみだったりします。 そして年表にまとめてあらためてびっくりしたのですが、ドラマはすでに9回を終えてるというのにまだ1582年(天正10年)の10月末なんです。8ヶ月しか経ってません。 それでもこの歴史的にも大きな転機となり、激動の一年だっ…

全国にある織田信長の墓所

…土城下に所在したが、豊臣秀次が近江八幡城を築城した際に移築 (安土城内)総見寺 滋賀県蒲生郡安土町 信長の一周忌に秀吉によってつくられた廟所 南宋寺 大阪府堺市 徳川家康・千利休の墓もある 崇福寺 岐阜県長良町 お鍋の方が信長・信忠の遺品を埋めたとされる 総見寺 名古屋市中区 清洲会議によって尾張を所領とした織田信雄が父を弔う為に建立、江戸期に名古屋に移転 総見院 愛知県清洲町 供養塔がある 長興時 愛知県豊田市 一周忌に描かれた信長の肖像画と位牌がある 織田剱神社 福井県織…

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