赤瓦 の検索結果:
…たことでしょう。 ・赤瓦について 天主台付近から発掘される瓦は火災における灼熱の影響を受け灰色から赤色に変色しているものが多いですが、安土城天主に用いらた瓦の中に当初から赤瓦であったものは存在するのでしょうか。赤瓦に関する記録として「安土山ノ記」には「碧瓦朱甍」とありますが、勿論これは天主の写実的描写というよりは典型的な美辞麗句であり、赤瓦の根拠とはならないと思われます。その上、天主外観の色彩の豊かさに注目した宣教師の記録の中に、実際に存在したなら必ず記録されたであろう赤瓦が…
…屋根に用いられている赤瓦は、会津藩・初代藩主の保科正之氏が、雪国ならではの低温や積雪に耐えられる瓦の開発を命じたことから生まれた。鉄分を多く含んだ釉薬を加えることで、瓦に水分を染み込ませない効果がある。現在、この赤瓦を用いた天守閣を見られるのは全国でも会津若松城だけ 優美な五層の天守を誇る、難攻不落の名城 会津若松城の始まりは至徳元(1384)年。葦名直盛氏が東黒川館を築いたことに由来する。その後、文禄2(1593)年に蒲生氏郷氏が入城し、天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名。以降…
…や銅などの金属瓦や、赤瓦、銅板葺などもありました。今回はこの天守の屋根の素材について見ていきたいと思います。 瓦葺(かわらぶき) 現存12天守の屋根は全て瓦葺きです。本瓦葺(ほんかわらぶき)という方法が使われています。本瓦葺というのは、ほぼ正方形の瓦をゆるく曲げた平瓦(ひらがわら)と、丸い筒を縦半分に割ったような形の丸瓦(まるがわら)を使い、屋根の上に平瓦を並べその隙間を丸瓦で塞ぐように置いていきます。本瓦葺きの屋根はとても重厚で高級な趣きになりますが、瓦の枚数がとても多く屋…
…殿の屋根はもともとは赤瓦ではなかったんじゃないかという説もあります。1715年(正徳5年)の再建時から赤瓦に変更されたといわれています。これが赤で統一しようというデザイン上の理由ではなく、薪を節約するため(ふつうの瓦より赤瓦のほうが低い温度で焼けるから)というのがおもしろいですね。詳しくは首里城公園のサイトにコラムがあるのでぜひ。 oki-park.jp グスク展を取材した際に、当時の絵画が展示されていましたが、屋根はすべて黒く塗りつぶされていたので、当初は板葺きだったと推定…
…ぐ近くにあります。 赤瓦の建物のところから、いまも水が湧き出てるそうです。夏には近所の子どもたちが水浴びして遊んでいるとおっしゃってました。 最後の戦いは、まるで大坂の陣 1423年に南山は滅びますが、この最後の戦いはかなり激しいものだったそうです。尚巴志に滅ぼされた武寧王(旧中山勢力)の人たちや北山の人たちも南山グスクに集まって、尚巴志へのリベンジを果たそうとしていたようですが、まるで「大坂の陣」の際に全国の浪人が大坂城に集まってきたみたいですね。 郷土史によれば、南山軍の…
…不足したこともあり)赤瓦になったとネットの記事で読んだことがありますが、壁面の色まで黒かった可能性があるとは初耳でした。今回の復元までになにかがわかることはないと思うんですけど、今後の調査結果を追いかけたいですね。 まとめ 本土で暮らす人って琉球の歴史についてちゃんと時間をかけて学ぶ機会もないし、いくら城好きとはいってもせいぜい首里城や今帰仁城、中城城といった世界遺産のグスクくらいしか知識がない人も多いと思います(ぼくがまさにそうだったのですが)。しかし今回、主任学芸員の山本…