攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

赤穂藩 の検索結果:

仇討ちの歴史について教わりました

…三大仇討ちのひとつ。赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけ、切腹およびお家取りつぶしとなったのがそもそもの始まり。武士には喧嘩両成敗の原則があるが、このケースでは適応されないと幕府が判断し、吉良側はお咎めなしだった。赤穂藩の浪士たちはこのことを不満に思って仇討ちの準備をしつつ浅野家復興のための工作を進めたが、お家再興がうまくいかないと知るや報復を決意。四十七人の浪士が吉良を襲撃し、その首を取り、…

【クーデターで読み解く日本史】死んでこそ、忠臣のほまれは保たれる――元禄赤穂事件

…人に恋慕していた」「赤穂藩の特産品である塩をめぐるいさかい」などと多様な説が存在し、すべて推測の域を出ない。 この事件を受けて、赤穂藩浅野家は取り潰しとなった。城を明け渡すか徹底抗戦するかについては藩内で論争になったが、家老の大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお)が中心となって主張したとおり、おとなしく幕府へ明け渡すことになった。また、今後の方針の話し合いが行われた結果、「申し開きの機会さえ与えられぬまま果てた君主の不名誉を削ぐため、吉良に復讐をしよう」とする意見もあ…

【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家

…でもあった。 播磨国赤穂藩浅野家は、安芸国広島藩主・浅野家の支流にあたる。清和源氏の流れで、末裔の浅野長政が豊臣秀吉の正室・おねの義理の兄弟という関係から大いに躍進、後に豊臣政権の五奉行筆頭となっている。関ヶ原の戦いで東軍について功績をあげた浅野家に与えられた下野国真岡の2万石を、3男の長重が受領して真岡藩を成立させた。その後、父・長政の死により彼の所領である常陸国真壁5万石を受け継ぎ、1622年(元和8年)には常陸国笠間5万3千石余に移封。さらに赤穂藩主・池田輝興が発狂して…

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…を分け与えて成立)も播磨国の西部に移封となる。当主であった長俊はここに三日月藩を成立させ、明治維新まで存続させた。また、まだ存命だった2代藩主の長継は、衆利の死後に備中西江原に2万石を幕府から賜り、ここに森家を再興させている。とはいえ、この時点で、もう非常な高齢であったため、旗本になっていた息子の長直が呼び出される形でその跡を継ぎ、彼が後に播磨国赤穂藩に移されて、幕末まで続くことになる。 一難去ってまた一難という具合の森家ではあるが、どうにか生き延びることは許されたのである。

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