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【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家

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突然の乱心からすべては始まった

世に知られた「忠臣蔵」あるいは「元禄赤穂事件」は仇討ちの物語として名高いが、これは一方で大名の改易とそこからの再興を目指すドラマでもあった。

播磨国赤穂藩浅野家は、安芸国広島藩主・浅野家の支流にあたる。清和源氏の流れで、末裔の浅野長政が豊臣秀吉の正室・おねの義理の兄弟という関係から大いに躍進、後に豊臣政権の五奉行筆頭となっている。
関ヶ原の戦いで東軍について功績をあげた浅野家に与えられた下野国真岡の2万石を、3男の長重が受領して真岡藩を成立させた。その後、父・長政の死により彼の所領である常陸国真壁5万石を受け継ぎ、1622年(元和8年)には常陸国笠間5万3千石余に移封。さらに赤穂藩主・池田輝興が発狂して自分の正室を殺して改易された事件を受け、この際に派遣された、子の浅野長直がそのまま藩を受け継ぐこととなって、赤穂藩浅野家誕生となった。

事件が起きたのは浅野長矩(あさの ながのり)、官職名から「浅野内匠頭(たくみのかみ)」と呼ばれることが多い人物の代のことである。この件についてはあまりにも有名なので、ここでは簡単に概要に触れるだけにとどめる。

1701年(元禄14年)、上皇の特使が江戸城にやってくることになり、その接待役を命じられた長矩は幕府高家(各種の儀式を司る役職。主に名門武家がこの地位に置かれた)の吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)に典礼の指導を求めた。
ところが義央はそれに対し、賄賂を求めてきたのである。長矩はそれを断ったために、両者の関係は著しく悪化した。このことで義央への恨みを募らせた長矩は、ついに江戸城中にて彼を斬りつけてしまう。すぐさま長矩は取り押さえられ、改易と切腹を命じられた、というのがまずは事件の第一幕である。

ちなみに、長矩は義央を斬りつけた理由について「私の遺恨」としか喋らなかった。
また、この種の賄賂・付け届けは実のところ江戸時代には別に珍しくなかったことから、ここで紹介した理由は広く世に知られているが、真実かどうかはわからないのが実際のところである。

実を結ばなかった再興運動

さて、長矩の改易と切腹に際し、長矩の弟で養嗣子になっていた長広(通称・大学)も安芸国の浅野本家にその身を預けられることとなった。
その一方、国家老である大石内蔵助を中心とする家臣団は、処分を和らげ、再興を目指すための活動を開始していた。幕府の大目付のもとに使者を遣わし、浅野家の処分に対して再考慮を嘆願する陳情書を届けようとしたのである。ところが、この使者がまさに赤穂藩の処理のために江戸城を出発した大目付と入れ違いになるという結果になり、この作戦は失敗してしまった。

こうして赤穂藩浅野家は断絶したが、その後も内蔵助らは長広を当主とした赤穂藩浅野家復活を目指して働きかけを続けた。本連載で繰り返し紹介してきたように、断絶・改易からの復活は決してないケースではなかったからだ。
また、内蔵助らは「抗議のために切腹するべきだ」「籠城して戦い、一矢報いるべきだ」という藩内の意見を退け、あくまで無血で赤穂城の開城命令に従っていた。これもまた、幕府に対してよい印象を与えて、その後の再興につなげるためだった。

にもかかわらず、再興は許されなかった。
長広は「閉門」処分自体は解かれたものの、お家再興は許されず、本家である広島藩浅野家預かりとなってしまったのである。これには、内蔵助たち穏健な再興希望派も覚悟を決めざるを得なかった――すなわち、強硬派と合流したうえでの、主君の仇を討つための吉良邸への討ち入りである。
この時までに同志は47人にまで減っていたが、彼らは1702年(元禄15年)に吉良邸へ乱入、ついに仇である義央を殺害することに成功した。

もちろん、このような事件を起こして、ただで済むはずもない。彼らはしばらく数ヵ所の大名屋敷に預けられた後、翌年全員切腹、という処置になった。
全員が従容として自らの腹を斬ったため、この事件は「義挙」として現代に至るまで広く語り継がれることになった。

事件の後に残された2つの「再興」

1709年(宝永6年)、赤穂藩浅野家に光が射した。将軍・綱吉の死によって大赦が行われ、浅野本家に預けられていた長広が自由の身となったのである。
翌年には旗本として安房に500石を賜り、小禄ながらも再興を果たした。これは長広の忍耐強さがついに実を結んだということであったろうし、また四十七士の討ち入りが人々の同情を呼んだ、ということとも関係があったかもしれない。

ちなみに、この一連の事件について本藩である広島藩浅野家がどのような対応をしたか、といえば――残念ながら、非常に冷たい対応に終始したようだ。赤穂藩浅野家を援助するようなことはなく、内蔵助が借金を頼んでも当主の綱長(つななが)は会ってさえくれなかった。

この綱長は、長矩が起こした事件そのものについても、「馬鹿なことをしてくれたせいで、浅野家の恥になった」としか考えていなかった、という。眼中にあったのはあくまで本家のことだけだったのである。
たしかにこの一件ではずいぶん気をもんだだろうし、場合によっては何らかの形で連座ということもあったかもしれない。しかし、四十七士らの見事な生き様・死に様と見比べてしまうと、情けなく見えるのもまた事実である。

ただ、さすがの浅野本家も、討ち入り事件の評判があまりにも高くなりすぎたので、少しは男気のあるところを見せなければならなくなったらしい。
内蔵助は長男とともに切腹したのだが、3男の大三郎が生きていた。この12歳の少年を、父と同じ1500石で召し抱えて、大石家を復活させたのである。これもまた、1つの再興物語である。

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