攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

越前松平家 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…おりなので、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老について紹介する。 まずは北ノ庄藩越前松平家から。家康の次男でありながら、豊臣家、結城家に養子に出ていたこともあって、徳川の家督を継承しなかった秀康には本多富正(ほんだ とみまさ、3万9千石、府中城主)が付けられ、秀康の子・忠直の代になってさらに本多成重(ほんだ なりしげ、4万石、丸岡城主)が付けられた。 このふたりは本多一族の定通流出身で、成重の父・本多重次(ほんだ しげつぐ)は「鬼作左(おにさくざ)」の通称や「一筆啓上 …

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家…

江戸時代をデータベース化する

…、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明石松平家)がずっと藩主をつとめたことが横棒の長さから一目瞭然です。 明石藩 もちろんこれは大名家側からも確認できます。小笠原家は明石藩のあと、小倉藩に加増移封されますが、どこの藩主をどのくらいつとめたかがわかるようになっていま…

1.譜代大名の定義

…・結城秀康を祖とする越前松平家、3代将軍家光の弟・保科正之を祖とする会津松平家、6代将軍徳川家宣の弟で・松平清武を祖とする越智松平家などが代表例だ。逆にいえば、家康とその父系の末裔から分かれたものだけが親藩で、松平一族であっても「十八松平(十四松平)」のような家康以前から分かれた一族や、家康の娘・亀姫を迎えて松平を名乗った奥平松平家などは譜代大名である。 また、石高が1万石未満の者も、いくら徳川家に長く仕えていようと譜代大名とはされない。彼らは「直参」とされ、将軍に直接謁見す…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…屋」に、加賀前田家や越前松平家などが「下之部屋」に詰めていました。そして御三家以外の親藩大名と有力外様大名は玄関に近い「大広間」に、その他の外様大名たちは大広間と白書院の間に位置する「柳の間」が殿席となっていました。 登城した大名たちは坊主衆(ぼうずしゅう)と呼ばれる武家の子息におのおのの殿席まで案内され、そこで待機して、将軍に拝謁する時間が近づくとそれぞれの謁見の間(礼席)へ移動しました。礼席も家格と行事によって異なり、たとえば大廊下詰めの大名の場合は年始・八朔・五節句の時…

3.戦国大名から外様大名へ

…許される家(御三家・越前松平家。国持ち大名、ただし藤堂家・佐竹家などは対象にならない)や、「松平」の称号を与えられる家(松平一族や徳川一族、徳川一族との血縁がある家、そして外様大名が特別な名誉として与えられる)などもあり、これも「格」を構成する大きな要素となった。これらは別に徳川家が始めたことではなく、以前からあった習慣の一種であることを付記しておく。 さらに「移動に用いる乗輿の種類」とか「行列で乗る馬に虎革の覆いがかけられる」とか「表門に家紋を付けてよい」など、様々な形で大…

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