攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

長尾為景 の検索結果:

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

…潟県の一部)守護代の長尾為景(ながお ためかげ。謙信の父)の間が険悪になると為景と戦い、父は壮絶な自刃を遂げるが、彼は長尾家に仕えるようになる。 為景の死後、長尾景虎(謙信のこと)が家督を継ぐと、1551年(天文20年)に一族の長尾政景(ながお まさかげ)がこれを不満として挙兵する。定満はこの戦いに参加して功績をあげ、謙信と政景は講和する。以後、政景は謙信の重臣として活躍するが、どうもその胸中にはいまだ野心の炎が燃えていたのではないか、と見られる。 そして1564年(永禄7年…

【10大戦国大名の実力】上杉家②――長尾為景の成功と失敗

長尾為景の成功と失敗 室町時代後期から戦国時代にかけては各地で名門守護が衰退し、代わって守護代が力を増してついに下克上に至る、という現象が見受けられたが、越後もまた例外ではなかった。越後においてその実行者となった人物こそ、謙信の父・為景(ためかげ)である(ただし、既にその以前から上杉家と長尾家の対立と内乱は始まっていたともいう)。 1506年(永正3年)に父・長尾能景(ながお よしかげ)が一向一揆との戦いで戦死したことからその跡を継いだ為景は、翌年には越後守護・上杉房能(うえ…

【10大戦国大名の実力】上杉家①――カリスマの功罪

…そして戦国期を生きた長尾為景(謙信の父) ・謙信・上杉景勝(謙信の養子)の三人の生涯を通して、謙信の真実に迫ってみたい。そこで見えてくるのは、絶対的なカリスマがもたらす力と、それがなくなった後の悲劇である。 上杉・長尾氏の出自 上杉氏は鎌倉時代から東国で栄えた名門武家であり、その血筋は藤原氏の一流・勧修寺(かじゅうじ)氏にさかのぼる。勧修寺重房(かじゅうじ しげふさ)という人物が丹波国何鹿郡上杉を所領として「上杉」を名乗るようになったという。 特に足利氏と深く結びついた(室町…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…た一連の戦乱の総称。長尾為景の謀叛、山内上杉家の内紛、古河公方家の内紛など 戦国時代 1514年(永正11年) 第二次伊庭氏の乱 再び出奔した伊庭貞隆が北近江の京極氏および浅井氏の支援を受けて六角氏(このとき当主は定頼、高頼は隠居)と戦う。今度は六角氏側が勝利して、伊庭氏に味方した京極氏衰退の原因にも。なお守護vs守護代の争いというよりも明応の政変以降の足利義材派と足利義澄派の争いと見られる 戦国時代 1519年(永正16年)〜1522年(永正19年) 越中永正の乱 領内を混…

金沢城 武士が統治する証となった城

…21年(大永3年)に長尾為景に敗れ一揆勢に動揺が広がった。本願寺の上層部が鎮めようとしたのだが、それにも失敗。本願寺の影響力を保つために作られたのが金沢御堂と呼ばれる坊舎である。この坊舎を中心に人や商売人が集まり、金沢は寺内町として発達した。 金沢御堂は一揆の中心であり、本願寺と対立していた織田信長による一揆の鎮圧が行われた。1575年(天正3年)8月に3万を越える大軍で越前に出陣して総攻撃。その後、柴田勝家に加賀攻めを任せている。勝家は金沢御堂を陥落させ、一向一揆の指導者を…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…は越後守護代であった長尾為景の末子として春日山城で誕生。幼名を虎千代と名乗りました。 元服してからは武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねましたが、そのほとんどが義を重んじ出兵したものだったと言われています。 謙信の旗印「毘」の文字は自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた「毘沙門天」からとったもの。その戦ぶりから越後の龍とも呼ばれました。そんな謙信が本拠地とした春日山城は変化に富んだ地形を上手に利用した難攻不落の城 として威風堂々たる堅城だったそうです…

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