攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

長谷堂城 の検索結果:

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…東軍側である最上家の長谷堂城を攻める。黒田官兵衛の九州での決起に見られるように、関ヶ原の戦いは全国に広がって様々な「地方版・関ヶ原の戦い」が行われていたのだ。 ところがこの長谷堂城攻めはなかなか決着がつかず、そうこうしているうちに関ヶ原での決戦の結果が兼続の元に届く。報告は石田三成の、そして西軍の敗北を伝えていた。仕方なく兼続は兵を退くが、報せはもちろん最上軍及びその援軍にやって来た伊達軍にも届いたから、彼らはかさにかかって追撃してくる。戦うにあたって最も難しいのは撤退戦で、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…形城の南西に位置する長谷堂城である(ともに山形県山形市)。この城は南からやってきた敵が山形城を攻めようとした場合、その後ろから挟撃できる位置にあったので、放置できない存在であった。 長谷堂城が活躍したのは、「北の関ヶ原」と呼ばれる戦いの中でのことである。中央で徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍がぶつかっていた頃、各地方でも諸大名が東西に分かれて争っていた。時の最上氏当主・義光は東軍につき、そのために西軍側の上杉氏の攻撃を受けることになったのである。上杉景勝の命を受けた…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。 この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる。だが、そもそも彼の登場まで長く内乱を続けてきたことからもわかるように、最上家はとても一枚岩とはいえない状況であった。義光は一代の英雄ではあったが、「小規模勢力の寄せ集め」という戦国時代的大名家である最上家を、システムによって統制する近世大名に昇華させることはできなかった。これが後の悲劇に…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

長谷堂城の築城時期や築城者はわかっていない。ここは出羽国最上郡を本拠地とする最上氏の重要拠点であった。隣国には伊達氏がおり、いざこざが絶えなかったからだ。1514年(永正11年)には伊達稙宗によって落城させられ、翌年の和議によって返還された。しかし、1521年(大永元年)には伊達氏は再び兵を出しており、両者は再び争った。それは稙宗のひ孫、政宗の時代でも変わらなかった。両者は1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で激突する。 CLAD | 直江兼続の本陣跡を望む[長谷堂城] …

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…ojodan.jp 長谷堂城跡 そんな豊臣秀吉が死を迎えます。 政宗と徳川家康は天下人であった秀吉の私婚を禁じる遺言を破り、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させてしまいます。豊臣家恩顧の石田三成らは猛反発したようです。さらに家康は会津の上杉景勝を討伐するためと軍を発し、政宗もこれに従い戦が勃発します。家康が機内から離れている隙をついて日頃から家康に反感を抱いていた石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵します。1600年、これが世に言う「関ヶ原の戦い…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する