征夷大将軍の代名詞とも言える人物が源頼朝ですが、やはり幕府を開いただけあって武家でありながら政治的手腕が高かったようです。ただその死因についてはどうにもはっきりしていないのです。
源義仲(木曽義仲)は源頼朝のいとこにあたります。義仲は戦術家として兵を指揮する能力だけでなく、局面を有利に展開する戦略家としてもすぐれた人物でしたが、京から離れて生まれ育ったこともあり、朝廷との関係を構築することはできなかったようです。
歴史上、いったんは姿を消した征夷大将軍がふたたび世に現れたのは鎌倉時代の源義仲、源頼朝になります。とくに頼朝は朝廷と距離をおいた政権運営をするために将軍の持つ特権がちょうどよかったと言えます。
東の平将門、西の藤原純友を征伐するために将軍職についたのが藤原忠文です。しかし就任時には68歳だった忠文は鎮圧には成功したものの、とくに功績はなかったともいわれています。
朝廷と東北・蝦夷との戦いにおいて、武力で貢献してきたのが征夷大将軍(征夷将軍)でした。その最後を飾るのが文室綿麻呂です。
大阪城は「公式には」御城印がなく、朱印風のスタンプがあるのみですが、そのスタンプを使ってオリジナルのなんちゃって御城印をつくってみました。
豊臣石垣公開プロジェクトによる石垣の一般公開に運良く参加できたので、その様子をレポートします。 動画と写真もたくさん撮ってきたので少しでも当日の状況が伝わればうれしいです。
征夷大将軍の象徴として知られる坂上田村麻呂はその功績もさることながら、多くの伝説が残っています。その死後は信仰の対象となり「王城鎮護」や「平安京の守護神」など最大級の賛辞を送られています。
もし戦国時代にYahoo!ニュースが存在していたら「本能寺の変」をどんなふうに伝えたかという妄想記事なのですが、これがじつにおもしろかったのご紹介します!
最初の征夷大将軍である大伴弟麻呂が何を成し遂げたのか、そしてなぜ彼が選ばれたのかについて紹介します。平安京へ遷都した桓武天皇の時代の話なんですね。
一年あまりの連載を振り返って、榎本先生にコメントをいただきました。大河ドラマ「麒麟がくる」そしてこの連載を楽しんでいただけましたか?
信長の小姓として「本能寺の変」で運命をともにした森乱丸ですが、障子を信長に閉めてくるように命じられた際に(信長に恥をかかせぬよう)閉まっていた障子をいったん開けてから、音を立てて閉めるなど、度を超えた忠実ぶりを発揮した逸話が残っています。
史料に見える最初の征夷大将軍は大伴弟麻呂です。彼の部下が有名な坂上田村麻呂なのですが、今回は征夷大将軍という役職が生まれた経緯について紹介します。
誠仁親王は正親町天皇の第一皇子です。信長が自らの居館としていた二条新御所を譲られ居住していたのですが、本能寺の変の際にはこの館に信忠が立て籠もったため、巻き込まれることになります。非常時とは言え、親王の邸宅に押し入っちゃえるほど織田家の権…
大和国における二大勢力に挟まれた柳生氏は境界大名と呼ぶにはあまりに少勢力ですが、徳川家康から秀忠、家光と三代にわたり重用された柳生宗矩のときに大和柳生藩1万2500石の大名にまで出世しています。 剣豪と呼ばれた人物の中で大名にまで出世したのは宗…