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【歴代征夷大将軍総覧】坂上田村麻呂――あまたの伝説に名を残す、武士の象徴 758年~811年

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コワモテの男

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を日本で最初の征夷大将軍・古代の伝説的な英雄として知っている人は少なくないだろう。それが正確な事実とはいえないことはすでに紹介したとおり。
しかし、田村麻呂が難敵・蝦夷(えみし)討伐に大きな働きを示したことは間違いないし、後世に多くの「田村麻呂伝説」が伝えられて伝説化・神格化したこともまた事実である。

平安時代末期、源平合戦のころになって征夷大将軍というすでにその役割を終えた役職が引っ張り出され、「武家の頂点」という意味合いを与えられたのも、「あの」坂上田村麻呂が務めた、という付加価値に期待するところが大きかったのではないか。
田村麻呂は一騎当千と謳われた強敵・蝦夷を撃退したことから、恐ろしい顔の人物、というイメージがある。赤い顔に黄色い髭が特徴的だったというから、確かにあまり見ていて楽しい容貌の持ち主ではなかったようだ。『田村麻呂伝記』にも「怒れば猛獣も倒れてしまう」とされているから、相当のコワモテであったろう。
しかし、その言葉の後には「笑えば子供がなつく」とついてくるから、単純に怖いばかりの男ではなかった。いかにも古代の英雄という感じの、敵にすれば恐ろしいが味方にすれば頼もしい、器の大きい男だったのではないか。もちろん、「勇力人に過ぐ、将帥の量あり」という『日本後紀』の言葉でわかるように、武将としても得がたい存在であったことは間違いない。

父・苅田麻呂の活躍

田村麻呂を輩出した坂上氏は渡来系氏族のひとつである。
後漢の霊帝(『三国志演義』に登場して英傑・奸雄たちに翻弄される献帝の父親)を祖先と称する東漢氏(倭漢氏とも)は技術を武器に発展したが、その一方で急速な分派を繰り返し、多くの枝族が緩やかに結合する形をとった。そうして生まれた氏族のひとつが坂上氏だった。
分派した直接の祖となる人物については弓束直という名が知られている。弓束というのは弓の握り手の部分のことであり、この人物は弓作りを職業としていたのか、あるいは弓をより直接的に使う職業――軍人であったのだろうか。ともあれ、坂上氏自体は武芸の訓練に熱心で、武に拠って立つ一族であったようだ。田村麻呂という人は出るべくして出たのである。

地方豪族的な存在であった坂上氏が貴族の仲間入りをし、政界で躍進を果たすのは田村麻呂の祖父である犬養(いぬかい)のころ。この人が大仏造りなどで有名な聖武天皇に大いに気に入られ、その武勇や忠誠心を評価される形で出世を遂げる。
さらにその子(=田村麻呂の父)の苅田麻呂(かりたまろ)は、764年(天平宝字8年)に勃発した恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん、藤原仲麻呂の乱とも)で活躍し、大いに武名を上げている。これは光明皇太后をバックに大きな発言力を有していた押勝が、皇太后の死および政敵・道鏡(こちらは孝謙上皇をバックにしていた)との対立に追い詰められ、武力反乱を企んだ事件である。
これに際して、苅田麻呂は孝謙上皇側につき、押勝の子を殺害するにあたって功績を挙げた。このとき、押勝の子は天皇の印と駅鈴(道筋で馬を借りられる駅伝システムを利用するための証)を奪って逃げる最中であったため、苅田麻呂の功績は多大だった、といっていいだろう。
この2人の後を継ぎ、坂上氏の最盛期を作り上げたのが、田村麻呂というわけだ。

田村麻呂、蝦夷を鎮圧する

田村麻呂の名を上げたのは、なんといっても蝦夷征伐であった。先述のとおり、田村麻呂が最初に参加した征伐での征夷大将軍は彼ではなく大伴弟麻呂だったが、実際に指揮を執ったのは田村麻呂だったようだ。後の記録がすべて田村麻呂を中心としてこのときのことを記していることからもそれがわかる。
この戦いが具体的にどのような経緯をたどったかは正確な記録が残されていないのでわからない。しかし、朝廷の軍勢が蝦夷内部の切り崩しを成功させて大勝し、多くの蝦夷を殺害するとともに捕虜を連れ帰って各地に移住させたこと、一方で蝦夷側のリーダーであるアテルイは逃げ切ったこと、はわかっている。
797年(延暦16年)に征夷大将軍へ任じられた田村麻呂は、その4年後に節刀を与えられ、4万の兵を率いて再び胆沢へ出陣、勝利している。この戦いについても、詳しい史料は残されていない。

もちろん、ただ蝦夷と戦って勝った、というだけでは田村麻呂の役割は終わらない。朝廷の目的は蝦夷を完全に服属させ、東北を支配下に置くことだからだ。そのため、田村麻呂はこの後数年をかけて軍事拠点としての胆沢城・志波城の築城を進めることになる。
そうして東北における朝廷の支配が進行する過程で、もう進退窮まったのだろう。802年(延暦21年)、アテルイとその仲間である母礼が同族を率いて田村麻呂へ降伏している。田村麻呂はこれを快く了承し、彼らの身を都へ送った。その際、田村麻呂はアテルイと母礼の助命を嘆願したのだが、政権の中枢を占める公家たちは「いつ裏切るかわからない」と反対、ついに両名は処刑されてしまった――というのは、あまりにも有名なエピソードである。

単純な「英雄」ではなかった田村麻呂

このアテルイの話は、田村麻呂とアテルイのライバルであると同時に友情めいた関係を中心にした美談として語られることが多いものの、実際にはそう単純なことでもなかったようだ。
もちろん、田村麻呂の性格は最初に紹介したような度量の大きいものだったというから、何らかの敵味方を超えた信頼感のようなものはあったのだろう。しかし、田村麻呂は彼らの助命を願うにあたって、「その賊類を招かむ」(『日本紀略』)と発言している。
これはつまり、降伏したアテルイを「朝廷に服属した蝦夷」の象徴として利用し、蝦夷の反抗を抑え、今後の支配を有利に進めよう、という意図があったものだ、という説を採るべきだろう。ことは友情や信頼だけでなく、政略のレベルの話なのだ。

一方、朝廷がこれを拒否したのにも正当で明確な理由がある。反乱者である蝦夷を討つのは正当な行為であるというのが朝廷の論理であり(だから「征伐」なのだ)、その首謀者――しかも、かつて朝廷の軍勢に多大な被害を与えたアテルイを、いかに今後の東北統治に有効だからといって生かして東北に戻すようでは、国としての威信、権威を保つことができなくなる。
国家を成立させるためには、そのようなメンツを守ることが時に現実的な利益よりも大事なことがある。「あの国は弱いな」と判断された場合、外敵の攻撃対象になることもあれば、内部からの反乱を誘発することもある。そのため、アテルイたちは殺されなければならなかったのである。

以後、田村麻呂が東北へ出陣することはなかった。北方にはまだ蝦夷が存在し、実際に出陣計画そのものはあって804年(延暦23年)に征夷大将軍へ再び任じられてはいるものの、この計画は結局頓挫してしまった。
理由は国家の疲弊である。時の桓武天皇は田村麻呂による蝦夷征伐と、平安京の造営を二大事業として推進していたが、それにかかる経費と庶民の負担は莫大なものであった。何万もの兵を送り、また東北の支配を安定させるためにさまざまな活動をするためには、相当の代償が必要だったのだ。
そのため、ふたりの役人による「徳政相論」という論争を経て両事業の中止が決定されたのである。実はこの討論を前に桓武天皇自身はすでに決断しており、パフォーマンスとして行わせたのだ、という。であるならば、桓武天皇の寵愛を受け、東北の事情をよく知る田村麻呂の助言が何らかの形であったのでは、という説もある程度の信憑性を帯びるというものであろう。

伝説になった男、田村麻呂

その後、田村麻呂自身は大納言にまで出世してその生涯を閉じたが、彼の名声は死後も残り、むしろ「理想的武人」の象徴として高まり続けた。
田村麻呂が亡くなった際、時の嵯峨天皇は彼の遺体に鎧を着せ、立った姿で、東に向けて埋葬させた、と伝わる。これは死後も東北平定にその霊威を振るってほしい、という願いに他ならない。また、国家に何か非常の危険があれば田村麻呂の霊が警告してその墓が音を立てて動き、また反逆者と戦うものは彼の霊に祈って加護を求めるのだ、ともいう。
さらに神格化され、北天(=仏教の守護神のひとつ、北方を守護する毘沙門天のこと)の化身である、とさえいわれた。

東北の各地には田村麻呂を主役とする伝説が残っていて、彼が建立した、あるいは彼とかかわりがあると主張する寺社が多数存在する。また、京で語られた軍記物語でもたびたび伝説化した田村麻呂が登場する。そこに出てくる彼は武人の代表選手であったり、蛮族退治の英雄を飛び越えて鬼を退治していたりする。
これほどまでに田村麻呂が英雄視され、人気があったのはなぜであろうか。中央においては、「強大な蛮族を征伐したから」ということでわかりやすい。律令政治が疲弊していく中で、彼の功績にすがった、という部分もあるだろう。だが、東北は彼によって征服された土地であり、そこの住民にとって田村麻呂はかつての敵である。
これについては、田村麻呂が宥和政策(ゆうわせいさく)をとったことが理由としてしばしば挙げられるが、それに加えて「蝦夷がアイヌのことだと混同されたことから、田村麻呂が倒したのは自分たちの先祖ではなく北海道の異民族だったと考えるようになったのでは」という説があり、なかなか説得力があるように思われる。

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