攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

本堂の屋根瓦の葺き替え工事などのため拝観休止中だった臨済宗大徳寺の塔頭・高桐院が、ようやく11月10日から一般拝観が再開されたので、さっそく訪ねてきました。

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ここは「そうだ 京都、行こう。」のポスターにもなった赤い絨毯で有名なお寺ですので、もう少し紅葉が進んだら大勢の観光客が参拝されると思います。

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この参道は左右を楓に囲まれているため「楓の庭」と呼ばれているのですが、細い参道の両側が紅葉の落ち葉で真っ赤に染まります。

その先もじつに趣のある素敵な参道になっています。

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高桐院は細川家の菩提寺

大徳寺の塔頭である高桐院は細川忠興(三斎)が建立した細川氏の菩提寺です。
江戸時代初期の武将で茶人としても有名で「利休七哲」のひとりにも数えられる忠興ゆかりの寺院だけあって、書院は利休の邸宅を移築したものといわれています。

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境内はすべて撮影オッケーなのもうれしいですね。
この客殿南庭(本堂前庭)もあと少しで真っ赤になります。

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室中にある木像はちょっと暗いのですが、中央に開祖である玉甫紹琮(細川幽斎の弟)、左側に忠興のものがあります。

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忠興の木像はちょっと小さめでした。

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これがかつて聚楽第にあったという利休邸を移築した書院「意北軒」です。利休切腹後に取り壊されようとしていたのを玉甫紹琮が移築したそうですね。

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襖絵は狩野探幽の弟で宗家を継いだ狩野安信が描いたとされる水墨画です。

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さらに書院につづく茶室「松向軒」は1628年(寛永5年)に忠興自ら建立したもので、忠興好みの二帖台目で、三帖の水屋がつき、茶室には珍しい黒壁を使うなど、壁や天井にも趣向が凝らされていて有名です。
この茶室はもともと北野大茶会で使われたとも伝わるそうですが、高桐院でいただいたパンフレットにはその記載がないので(たんに「三斎公の手で建立」とだけある)真偽は不明です。

 

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蒲落ち天井(がまおちてんじょう)や網代天井(あじろてんじょう)など、屋根がすべてちがうのが洒落てますよね。

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茶室につづく露地(茶庭)も素敵です。

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庭の奥には細川家歴代の墓

境内には忠興とガラシャの墓のほか、細川幽斎はじめ一族の墓があります。
墓所へ通じる門には九曜紋とともに五七の桐門がありますね。

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忠興とガラシャの墓石に使われている石灯籠はもともとは千利休が愛用していた灯篭でした。豊臣秀吉もこれをほしがったそうですが、利休はわざと欠けさせて秀吉に渡さなかったという逸話があります。
その後、利休が切腹の際に忠興に贈られました。

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忠興以外の細川家当主の墓はこちら。

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高桐院には歌舞伎の創始者といわれる出雲阿国の墓と、その阿国の恋人とも夫ともいわれる名古屋山三郎の墓もあるのですが、現在は立入禁止だそうです。

墓所の手前には三斎井戸と呼ばれる井戸がありました。

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また庭にある袈裟型降り蹲踞(けさがたおりつくばい)は加藤清正が朝鮮出兵の際に、朝鮮王城の羅生門礎石を持ち帰り、細川忠興に贈ったものを利用したと伝わります。
忠興はこのつくばいをとても気に入ったそうで、参勤交代の際にも持ち歩いていたといわれています。

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苔がいい感じですね。

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先日訪問した総見院の掘り抜き井戸も清正が朝鮮から持ち帰った石でつくったものと案内されていましたし、黄梅院にも清正が持ち帰った石がありました。これは日本に帰国する際は(多くの兵が戦死したために)船が軽くなってしまったので、大量の石を積んで持ち帰ったことが原因です。

軒丸瓦などに細川家の家紋「九曜紋」が入っています。

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竹林のある片隅にひっそりとたたずむ高桐院は庭、茶室、水墨画と見どころ満載のお寺です。
紅葉のときだけじゃなく、雪の日もすごく美しいみたいなのでいってみたいですね。

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御朱印には九曜紋なし

御朱印をいただきました(300円です)。
九曜紋が入ってるかなと思ったのですが、入ってませんでした。

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【戦国武将の御朱印集め】織田信長のお墓がある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました(京都・浄土宗)

今日は京都市上京区寺町今出川にある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました。
ここは織田信長のお墓があるお寺として有名です。

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「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれたことはよく知られていますが、その遺体が見つからなかったために羽柴秀吉に「信長は生きている」というデマを流す余地を残してしまい、結果として「山崎の戦い」で光秀が敗れたことはご存知のとおりです。
ちなみに当時のイエズス会の記録では「毛髪も残らず塵と灰に帰した」とあり、また『信長公記』では信長の遺体について明記されていません。

全国には信長の墓と伝わる寺社がたくさんありますが、なかでももっとも遺骸が眠る可能性が高いとされているのがこの阿弥陀寺です。
門前にも「織田信長公本廟」という石碑があります。

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阿弥陀寺はこんなお寺

『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば、事態を聞きつけた清玉上人が僧20人あまりを引き連れて本能寺に向かっったところ、すでに境内は炎上していて近づくことはできず、しかし裏門近くの竹林で信長の家臣たちが遺体を火葬しようとしていたところに遭遇、家臣らが話すには信長の遺言で死体を敵に渡すなと命じられたものの、連れ出すことは困難であることから火葬しようとしたとのこと。
清玉上人は自分は信長と格別の関係だからと話し、家臣たちが敵と戦っている間に遺体を火葬すると白骨を法衣に包み、本能寺の僧が逃げ出すのにまぎれこんで、寺に持ち帰って埋葬したそうです。その後、二条城(二条御新造)から織田信忠、森蘭丸など112人の遺体も持ち帰って埋葬したと伝わります。

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本堂に安置されている織田信長の木像は本人にもっとも似ているとされ、毎年6月2日におこなわれる「信長忌」のときにほかの寺宝とともに一般公開されます。 

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阿弥陀寺の御朱印

御朱印は庫裏でいただけます(9:00~16:00、年中無休)。

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阿弥陀寺の御朱印は2種類あり、本尊の「阿弥陀如来」と書かれたものと、「信長公本廟」と書かれたものがあります(いずれも500円)。

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ぼくは両方書いていただきましたが、「信長公本廟」のほうは織田木瓜をかたどった朱印が押されます。

信長のお墓はどこに?

信長のお墓は墓地に入ってまっすぐいくとあります。
墓地へも案内板がちゃんとありますので迷うことはないと思います。

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周囲には森蘭丸などのお墓もあります。
また清玉上人のお墓も同じ墓地にあります。

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清玉上人と信長の関係

妊娠中の清玉上人の母親が道端で倒れたところを、信長の異母兄である織田信広が助けました。
母親は清玉上人を出産後に亡くなったので、清玉上人は織田家の中で育てられ、阿弥陀寺の住職になりました。
清玉上人が開いた阿弥陀寺には信長をはじめ、正親町天皇や多くの武将らが帰依しました。信長らの援助もあり、今出川大宮付近に八町四方、13の塔頭を擁する大伽藍だったそうです。

「本能寺の変」後、「山崎の戦い」で明智光秀を討った羽柴秀吉が信長の遺骨が阿弥陀寺で供養されているという話を知り、自らが後継者であることを世に示すために信長の葬儀を執りおこなおうと遺骨の引き渡しを求めます。
しかしすでに葬式はおこなったと清玉上人は秀吉の申し出を断ったため、秀吉は寺領を四分の一に削り、現在地に移転させました(移転は都市改造計画の一環で阿弥陀寺にかぎった話ではないと思います)。
阿弥陀寺は参詣者も減り、困窮しましたが、森蘭丸の弟である森忠政とその子孫が寄進して寺を支えたそうです。ちょっといい話ですね。

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【京の冬の旅】妙心寺鱗勝院で春日局の御霊屋と海北友雪の水墨画等を見てきた

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前回の天球院につづいて、鱗勝院も特別公開の対象になっています。
(なんと8年ぶりの公開だそうです)

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ここは春日局の菩提寺で、3代将軍・徳川家光が創建した寺です。

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方丈の三部屋には海北友松の息子、海北友雪による「雲龍図」「山水図」「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)・西湖図」の水墨画が描かれています。これは複製ではなく本物でした。
とくに室中に描かれた「雲龍図」は間近まで寄って見れます。

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「京の冬の旅」パンフレットより

天球院の室中には金碧障壁画の「竹虎図」が描いてましたけど、こちらには水墨画とお寺ごとにいろいろちがうんですね。このへんはもっといろんなお寺をまわっていくとルールとかパターンが見えていくのかな。これから勉強していきたいところです。

春日局の父親は斎藤利三ですが、利三は明智光秀の重臣であったため彼女が幼少の頃(3歳頃)に処刑されています。その後、彼女らを庇護したのが海北友松で、その恩を忘れなかった春日局が海北友雪を引き立てたようです。

斎藤福から春日局、そして家光との関係

ちなみに「春日局」の名前は後水尾天皇や中宮和子に拝謁するために御所にあがる際にいただいた称号で、名前は「斎藤福」です。

その後、稲葉正成の後妻となり、さらに徳川家光の乳母となります。家光が将軍になったことで「将軍様御局」として大奥を取り仕切り、とくに大御台所であった江(崇源院)が亡くなったあとは絶大な権力を誇りました。

家光が実母の江ではなく、春日局を信頼したのは、両親(徳川秀忠と江)が自分ではなく弟の国松(徳川忠長)を溺愛し、ないがしろにされたからといわれてます。
『春日局略譜』によれば、家光は自害を考えたほどだったそうで、それを思いとどまらせたのが春日局だったと。
(じつは家光の実母が彼女だという説もありますけどね)

家光は春日局に多くのものを与えていますが、そのうちのひとつがこの「百椿図屏風」です。

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麟祥院パンフレットより

ほかにも聴秋閣を家光から賜っていますね。
家光が上洛する際に二条城内に建てられた「三笠閣」が、春日局に下賜され、彼女の孫にあたる老中・稲葉正則の江戸屋敷に移築されています。その後、所有者を変えつつ、原富太郎が所有することになり名称も「聴秋閣」と改められています。
ぼくもまだ見たことがないんですけど、貴重な二条城の現存遺構ですので一度見てみたいです。

www.sankeien.or.jp

後水尾天皇から下賜された御霊屋こそ必見

海北友雪の障壁画や家光から下賜された「百椿図屏風」も素晴らしいのですが、やはり麟祥院ではこの御霊屋を見たいですね。

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もともとはこけら葺きだったそうです。
詳細は不明点もあるので後述しますが、わかっていることはこの御霊屋は仙洞御所で釣殿(つりどの)として使われた建物で、後水尾天皇が春日局に下賜しています。

内部は撮影不可なのですが、小堀遠州作と伝わる木造と狩野貞信が描いた障壁画があります。

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公式ガイドブックより

また天蓋が備え付けられていたり、天井は最高格式の折上小組格天井(二重折上ではなかった)とほんとにすごいので、生で見れてよかったです。
狩野貞信は1623年(元和9年)に亡くなっているので、だとするとこの絵はいつ描かれたものなのでしょうね。現地では「おお、貞信だ!」とテンションが上ってしまって時系列を整理する余裕がなかったです。

家に帰ってから調べてみると、これは「楼閣山水図舞良戸貼付」という作品で、『花園大学歴史博物館資料叢書 第一輯 妙心寺麟祥院所蔵絵画資料目録』(花園大学歴史博物館編集・発行)によれば、1620年(元和6年)から1621年(元和7年)頃に描かれたものだそうです。貞信の貴重な現存作品です。

御霊屋自体も小堀遠州がつくったといわれています。
後水尾天皇が二条城に滞在した寛永行幸のための増改築工事において、小堀遠州は普請奉行をつとめています。その後、行幸御殿を仙洞御所へ移築する際の責任者でもあったので(現在も仙洞御所の庭園には一部だけ小堀遠州が作庭した箇所が残っています)釣殿として使われたこの建物にかかわっていることはまちがいなさそうです。

ちなみに「釣殿」というのは、寝殿造りにおいて池に面して設けられた建物のことです。主殿から池に向かって張り出した廊下の先にあり、水面にかかるように建てられています。
クーラーのない時代ですから、ここで涼んでたんですね。舟遊びの際の発着場としても使っていたようです。

外観は写真を撮っていいよということだったので、(空いてたこともあり)撮りまくりました。

まず目立つのがこの「三」の漢字が書かれた家紋です。方丈にもたくさんありました。
これは「折敷(おしき)に三文字」といって、稲葉家の家紋です。大三島神社の神紋と同じで、稲葉家の先祖はそっちのほうだそうです。ガイドの方は海賊みたいなものといってましたので、村上海賊に近いのかも。

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この蟇股も極彩色で美しかったんでしょうね。

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金具類は金張りだったそうですが、いまは剥げて下地の銅板が酸化して緑青になってます。

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一部だけ修復されているので、比較ができます。

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もともと御所にあった建物なので、菊紋がたくさんありますが、これは「二十四弁菊花紋」といって東福門院の紋章らしいです。
ただガイドの方の話によれば「24なんだけど、数がけっこうバラバラなんだよねえ」とおっしゃってたので、家に帰ってから写真を拡大して数えてみました。
(現地ではさわれないので数えづらい)

そしたら少なくとも24のはひとつもなかったですね。
ただ東福門院和子の菩提寺・光雲寺にある菊紋は十六裏菊なのでガイドの説明がまちがってる可能性もあるかも。まあ数が揃ってないのはまちがいないんだけど。

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ちなみに麟祥院には狩野探幽が描いた春日局の肖像画が所蔵されているそうですが、それは今回の特別公開の対象にはなってませんでした。

淀城のしゃちほこが

稲葉氏は幕末、淀城の城主をつとめていました。「鳥羽・伏見の戦い」において淀藩の裏切りが幕府軍敗退の一因となるわけですが、その淀城の火の見櫓に上げられていたしゃちほこが麟祥院の庭園にあります。

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御霊屋の来歴

ガイドの方から聞いた話をそのまま書くと「麟祥院の御霊屋は後水尾天皇から春日局が下賜されたもので、仙洞御所の釣殿でした。ただし春日局が存命中は二条城に移築されていた」ということでした。
「京の冬の旅」のパンフレットには「かつては能舞台として使われていたもので」と書いてあります。

さらにぼくが知ってることやわかってることを加えるなら、こんなところ。

  • 1628年(寛永3年)、寛永行幸の際、二条城には能舞台があった(ただし庭園には釣殿もあった)
  • 1627年(寛永4年)、寛永行幸のあと、行幸御殿は仙洞御所へ移築された
  • 1629年(寛永6年)、春日局が上洛し、「春日局」を下賜される
  • 1632年(寛永9年)、春日局が再度上洛
  • 1634年(寛永11年)、家光が上洛。その後は幕末まで将軍の上洛はなかった
  • 同年、家光が春日局のために鱗勝院を建立
  • 1643年(寛永20年)、春日局死去
  • 1680年(延宝8年)、後水尾天皇の崩御
  • 1788年(天明8年)、天明の大火で御所も焼失

そうなると疑問が残ります。

  • 仙洞御所の釣殿は二条城の行幸御殿を移築したものの一部なのか、それとも新築なのか
  • 能舞台として使われたのはいつなのか(寛永行幸字? それとも下賜されたあと?)

釣殿と御霊屋はサイズ的には近いし、天皇から下賜された建物を改築するとかはないと思うので、おそらくは

寛永行幸にあわせて二条城内に建てられた能舞台

仙洞御所の造営時に釣殿として移築(このとき大幅に改築)

(後水尾天皇から下賜される)

二条城に移築

(春日局の死去)

麟祥院に御霊屋として移築

という流れだと思います。

この御霊屋はいつ下賜されたのか、については、1634年(寛永11年)の麟祥院建立時か、1629年(寛永6年)または1632年(寛永9年)の春日局上洛時あたりかなと思うのですが、いずれにせよ10年前後は二条城に置かれてたことになりますね。
二の丸庭園に釣殿として再移築されたのかなあ。これは問い合わせてみたいので、なにかわかったら追記します。

もしなんらかの情報をお持ちの方がいたらぜひ教えてください。

kojodan.jp

東京にも麟祥院がある?

春日局の墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺で、じつは京都の麟祥院は春日局の菩提寺ではありますが、墓所はありません。
(パンフレットによれば、柳生兵庫助の墓があるそうです)

東京の「春日通り」の由来が春日局であることは知ってましたが、湯島にお墓があったんですね。
けっこう近く(徒歩圏内)に住んでたことがあるんだけどぜんぜん知りませんでした。

www.rinshouin.jp

紹太寺は春日局の嫡孫・稲葉正則が創建した寺です。「稲葉一族の墓所」として小田原市の文化財に指定されています。
正則は春日局の支援もあり、35歳で老中にまで出世していますので、そりゃ丁重に弔うよなあ。

www.choukouzan.com

金戒光明寺には江や忠長、あと山中鹿之助の墓所もあるみたいですね。家康が知恩院を二条城のバックアップとして城構えにしたことは知っていましたが、この金戒光明寺もそうだったんですね。
ここもいったことがないので、そのうちいってみよう。

www.kurodani.jp

こんなふうに、どこかに出かける→いろいろ調べる→また別のところに行きたくなる、という興味のスパイラルができていくのはいいですね。

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

今回の「京の冬の旅」で妙心寺は3つの塔頭が特別公開の対象になっています。

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そのひとつが天球院です(残りの麟祥院、龍泉菴についてはまた後日書くかも)。

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この天球院は「姫路宰相」や「西国将軍」の名で知られる池田輝政の妹、天久院の菩提寺です。
建立者とか名前の由来とか謎が多いので、それは後述するとして、このお寺の方丈(ほうじょう)を飾る障壁画は、「京狩野」の始祖である狩野山楽とその娘婿・山雪によって制作されています。近年の研究ではおもに山雪が描いたっぽいですね。

 

「竹虎図」、「梅花遊禽図」、「籬(まがき)草花図」などの金碧障壁画のほか、水墨画や杉戸絵も含め、全152面が重要文化財に指定されています。
江戸初期に建てられたにもかかわらず、1788年(天明8年)の「天明の大火」の被害もまぬがれてこうして残っているのは二条城二の丸御殿と並んで京都の奇跡のひとつですね。

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公式ガイドブックより

この「竹虎図」に描かれているのは、左にいる3頭のうち真ん中の大きいのが山楽で、その左にいるのが山雪、右の子虎は山雪の息子の永と、京狩野の三代を描いたとされてます。右にいる豹は山楽の奥さんか、山雪の奥さん(山楽の娘)ではないかと。
「豹が必ずしも虎のメスとして描かれているわけじゃない」というのは二条城で聞いた話ですが、この絵についてはメスと考えてよさそうですね。
(なお反対側の襖絵にも虎が1頭いましたが、こっちはとくに誰をモチーフにしたとかはないそうです)

じつはぜんぶ複製画

ちなみに今回展示されているのはすべて複製で、本物は京都国立博物館にあるそうです。二条城二の丸御殿もそうだけど複製画なら撮影オッケーにしてくれればいいのにと思うのは贅沢なのかな。あ、水墨画の一部だけオリジナルでした。

なお複製といっても、ただのカラーコピーじゃないんです。Canon(キヤノン)が自社製の最先端デジタルカメラで撮影した画像(3億万画素以上!)を、これまた自社製の高性能プリンターで出力し、さらにその上からオリジナル作品と同様に職人が金箔を貼っているので、ぼくのような素人にはぜんぜん見分けがつきません。
Canonの特設サイトに写真がありますが、美しいです。

global.canon

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「かぎりなく本物に近い複製品」と案内されたけど、ウソじゃないです。
もちろん本物を見たいという気持ちもやっぱりあるので、それは京都国立博物館や天球院での特別展示の機会を待つしかないですね。

方丈の部屋ごとの役割など

「方丈」はもともと1丈4方の正方形の建物でした。
1丈4=10尺ですから、約3.03m四方ということになります。古典で習った鴨長明の『方丈記』は方丈の庵で書いたことからつけられた題名です。

ただ、いつからか(狭くて客が収容できないことから)広くなり、部屋数も複数になり、本堂と同義になっていったようです。
禅宗の方丈は3部屋ずつ南北に2列並び、合計6部屋で構成されることが多いそうです。そして各部屋の役割も決まっているとか。御殿建築にちょっと似てますね。

以下の図は天球院の本堂をイメージして書きました。

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玄関から入って最初にあるのが「礼(らい)の間」で、いわゆる応接室です。
そのとなりがメインの部屋である「室中(しっちゅう)」でこの奥に仏像や位牌を安置する「仏間(仏堂)」があります。さらに進むと「檀那(だんな)の間」で、ここはお寺の檀那を通す部屋、ようはスポンサー用の特別応接室といったところでしょうか。

「檀那の間」の奥にあるのは「衣鉢(えはつ)の間」で、ここは住職のプライベート空間なので天球院でも水墨画「山水人物図」が描かれていました。そして「仏間」をはさんで反対側にあるのが「書院の間」です。

金碧障壁画は手前の3部屋(礼の間、室中、檀那の間)に描かれています。
こういうちょっとしたルールを知ることができると、お寺めぐりが楽しくなりますよね。

血天井

天球院の本堂廊下には血天井があります。
これは「関ヶ原の戦い」の前哨戦で落城した伏見城の床板だそうです。鳥居元忠らが討死した籠城戦ですね。
足で踏む床板として使っては供養にならないからと、天井に上げています。

京都のいくつかのお寺にはこうした伏見城の床板が天井に貼られてるそうです。
もしかしたらここは写真撮影オッケーだったかもしれません。確認するのを忘れてました。庭はオッケーといわれたんですけどね。

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金碧障壁画がデザインされた御朱印帳とクリアファイルが買えます

もし天球院を訪問されるなら、おみやげにぜひオススメしたいのが3つの金碧障壁画がデザインされた御朱印帳(3種類、1冊2000円)とクリアファイル(4種類、1枚500円)です。

ぼくはクリアファイルはぜんぶ買いました。御朱印帳は「竹虎図」です。

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御朱印帳を買うと御朱印を書いてもらえるんですね。

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攻城団でもオリジナルの御朱印帳をつくろうと思ってるので、どう使い分けようかな。

もやっとしていること(誰か教えて)

天球院は誰が建立したのか?

天球院の紹介では「天久院が1631年(寛永8年)に建立した塔頭です」と書いてるのもあるし、「岡山藩主・池田光政が伯母である天久院のために建立した」ともありますが、どちらが正しいのでしょうか。

公式サイトでは「自らの菩提寺として建立した」とあるので、光政はあくまでもスポンサーなのかな。でも京都市が建てている、門前にある案内板には「岡山藩主池田光政兄弟が、大叔母天久院のために、寛永八年(一六三一)から同十二年(一六三五)にかけて建立した寺院」とあるんですよね。

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天「球」院になったのはいつ?

珍しい球体の石垣として有名な鳥取城の「天球丸」の名前も天久院に由来するそうです。

もともと天久院は初代若桜藩主・山崎家盛に嫁いでいましたが子どもに恵まれず離縁され、池田家に戻ります(子に恵まれなかったのではなく、人質に出されるのを拒否して実家に帰った説なども)。
直接、鳥取城にやってきたかはわからないのですが、たぶん兄・輝政の吉田城にいったんじゃないかと思います。鳥取城は若桜城から近いので寄ったかもしれません。ともあれ、天久院は自分の弟で初代鳥取藩主となった池田長吉のいる鳥取城にやってきて、ここに彼女の居所があったことから、「天球丸」と名付けられたそうです。

ただね、ここで話がややこしくなるというか、現地ではお寺を建立する際に地中から「球」が掘り出されたことから「天球院」にしたと案内されました。
一方、天久院が山崎家盛と離縁したのは「関ヶ原の戦い」前だから鳥取城で暮らしたのは1600年(慶長5年)頃です。だとすると鳥取城の「天球丸」ももともとは「天久丸」と呼ばれていて、1631年(寛永8年)以降に漢字が変わったということなのでしょうか。

kojodan.jp

それにしても公式サイトのホームページ感がすごいですね。

tenq-inn.com

もし答えをご存知の方がいらっしゃったら教えてください!

【京の冬の旅】本法寺で長谷川等伯筆「佛涅槃図(複製)」や狩野山楽筆「唐獅子図屏風」を見てきた

いま京都では第53回「京の冬の旅」が開催されていて、通常非公開の文化財が特別公開されています。

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www.kyokanko.or.jp

京都のお寺っていつ訪問しても拝観できそうなものですが、拝観できる時期がかぎられていたり、拝観はできても収蔵されている障壁画は公開されていなかったりするんです。

で、今回は「京都にみる日本の絵画〜近世から現代〜」をテーマに、智積院では長谷川等伯の代表作「楓図」(もちろん息子・久蔵の「桜図」も!)や、大徳寺では狩野探幽の「山水図」「芦雁図」、妙心寺では狩野山楽・山雪による「竹虎図」などかなりの作品が公開されています。

とても一日二日でまわりきれないくらいの数なので、まずは近場のお寺についてはリハビリ散歩のついでに見学しようと、今日はもっとも近い、うちから徒歩3分のところにある本法寺にいってきました。

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こっちが正門です。
ぼくは堀川通側の裏門(といっていいのかな)から入りましたが、帰りはこちらから出ました。

長谷川等伯と本阿弥光悦にゆかりのあるお寺です

本法寺は長谷川等伯が京都に出てきたばかりの頃に滞在していたお寺です。
等伯は長谷川家に養子に入っていますが、京都に出てきたときは実家である奥村家の菩提寺である本延寺が日蓮宗だったことから、その総本山である本法寺に寄宿していたようです。

本堂前には等伯の銅像があります。七尾駅前にあったのとちょっと似てます。

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この時代、縁もゆかりもない土地に出ていくときに自分ちの宗派を頼るんですね。

以下のページで本延寺も紹介しています。

kojodan.jp

ちなみに現在地に移転したのは豊臣秀吉が聚楽第を築城するにあたっての都市改造で、1587年(天正15年)のことですから、1571年(元亀2年)に上洛した等伯は一条戻り橋の近くにあったという移転前の住所で暮らしてたんでしょうね。

もうひとりの有名人が本阿弥光悦で、もともとは光悦の曾祖父である本阿弥清信が獄中で日親上人と出会って信者になったようです。本法寺の開祖、日親上人はなかなかトガッた人で他宗派の批判をしたりしてよく捕まったみたいです。
(そういうアウトロー気質というか、体制に与しないあたりは長谷川等伯にも通じるものを感じたり)

以降、本法寺は本阿弥家の菩提寺になっており、秀吉に移転を命じられた際には光悦もかなり伽藍の整備に尽力したそうです。

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で、何が見れるの?

文化財はすべて撮影不可なのですが、まず本阿弥光悦が作庭した庭園「巴の庭」があります。

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写真に「日蓮」の字を重ねましたが、半円形の石がふたつで「日」を表し、その向こう側には蓮が生える池があって、「日蓮」を表現しているそうです。
いまは枯れてますけど、夏に来れば蓮がすごいことになってるのかな。

また築山が3か所あって「巴」を表してるそうですが、よくわかりませんでした。
この庭園は国の名勝に指定されています。

文化財はまず長谷川等伯が描いた超大作「佛涅槃図(仏涅槃図)」があります。縦10m、横6mの巨大な涅槃図は東福寺の大涅槃図(明兆筆)、大徳寺(狩野松榮筆)の涅槃図とあわせて「京都三大涅槃図」と呼ばれています。
たしかに現地でもそう聞いたと思うのですが、ネットで調べたら大徳寺じゃなく泉涌寺の涅槃図を入れてる記事もあってよくわかりませんでした。
(現地には学生ガイドが待機してくれていて、とても丁寧に作品解説をしてくれます)

なお現在展示されているのは複製です。本物は京都国立博物館にあるそうで、毎年3月14日〜4月15日は本物(真筆)が展示されるそうです。

この涅槃図は久蔵の七回忌にあわせて描かれたそうで、釈迦を久蔵に見立ててその死を悲しんでいる様子を描いたともいわれてるそうです。

そしておもしろいのが涅槃図に描かれることがまずないコリー犬が描かれていることで、もちろん当時の日本にはいなかったのですが、等伯が久蔵といっしょに大坂・堺の港町にいった際に南蛮人が連れているコリー犬を見たことがあったらしく、その思い出を懐かしんで描いたとか。

ぼくは絵の上手い下手はよくわからないのですが、こういう画家の心理というか、描かれた当時のエピソードを知ると感動が増しますよね。目と脳の両方で味わうというのかな。

狩野山楽の「唐獅子図屏風」もあるよ

今回本法寺で公開される文化財のメインはおそらくこの狩野山楽が描いた「唐獅子図屏風」だと思います。京狩野(きょうがのう)の初代である山楽は狩野永徳の弟子(のちに養子)で、この唐獅子図屏風も永徳の同名作品を模して描いたといわれています。

右下に描かれていた子獅子がなぜか消されていたり、この作品にも謎があるそうですが、永徳の画風をもっとも色濃く受け継いだとされる山楽の作品ですので、なんとも言えない迫力がありました。

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公式ガイドブックより

永徳のは宮内庁が所蔵してるんですね。

www.kunaicho.go.jp

興味はあるけどむずかしそうだからと気おくれしてる方へ

ぼくはまだぜんぜん詳しくないし、絵を見たところで「これは誰の絵だ」とかわからないし、狩野派だとか長谷川派だとかも見て判別できません。
だけどそんなのわからなくてもチャンスがあれば見ておけばいいと思います。だって金碧障壁画ってそれだけでド派手でカッコいいし、見応えありますよね。

そして「竹に虎」や「唐獅子牡丹」のような仏教由来のモチーフの組み合わせだったり、「涅槃図」にコリー犬が描いてあるとか知ると絵がただの絵じゃなくなるというか、画家の気持ちが少しだけ感じられますよね。

もちろん事前に知識を仕入れておいたほうがいいですけど、あとからでもぜんぜんオッケーです。そのときに「自分の目で見たことがある」というのが大事で、一度でも見ていたらおおげさではなく感動が10倍変わります。

だから御朱印集めや菩提寺めぐりのついででもいいので、ぜひ各地に現存しているいろんな障壁画を見てほしいなと思います。
(今回の本法寺でも御朱印は書いてもらえますよ)

ぼくはまたこの期間中にどこかに出かけるつもりです。ぜんぶは見れないかもしれないけど(そのくらいの無理のないペースでいいと思います)、智積院と妙心寺はいきたいんですよね。

毎年6月2日におこなわれる阿弥陀寺の「信長忌」にいってきました

今日、6月2日は「本能寺の変」が起きた日です。
(旧暦だからとかややこしい話はこちらに書いてあります)

織田信長は本能寺で自害したとされますが、けっきょくその遺体は発見されていません。
そのことが日本史におけるミステリーのひとつになっているわけですが、諸説あるうちのひとつに「阿弥陀寺の住職、清玉上人が本能寺へ駆けつけ、信長の遺骸をいち早く発見するとともにその場で火葬に臥して遺骨を寺へ持ち帰り供養した」というのがあります。

1万3千の明智勢が取り囲み、必死で捜索している状況で、彼らより早く信長の遺体を見つけることが可能だったのかはわかりませんが、清玉上人はその後、明智光秀の陣を訪ねて戦闘の停止を求めるとともに、織田信忠森蘭丸ら本能寺、二条城にて自刃・討死した者たちの遺骸の収容と供養を申し出、光秀はこれを受諾しています。

そんなわけで、この阿弥陀寺には信長の位牌や供養塔などがあるのですが、毎年6月2日には信長たち「本能寺の変」での戦死者を供養する「信長忌」がおこなわれます。
うちから歩いていける距離なので、朝からいってきました。

門の脇には「織田信長公本廟」と書かれた石碑があります。
(後ろの案内板の写真を撮り忘れたので今度撮ってきます)

ぼくは9時半くらいに着いたんですが、すでに20人くらいの参拝者がいました。

通常、本堂は非公開なのですが、毎年この日だけは中に入ることができます。なかには阿弥陀如来像のほか、信長の書状や手槍などの寺宝が展示されています。
ちなみに参拝料は1000円です。

本堂には信長と嫡男の信忠の木像に加え、兄の織田信広の木像が並んでいました。
なぜ「本能寺の変」と直接関係のない信広が? と思ったのですが、一説によると「本能寺の変」が起こる40年前の1542年(天文11年)に、信広が父である織田信秀の側室の子ども(つまり信広の弟)を救ったそうです。信広によって育てられたこの子どもがのちに僧侶となり、阿弥陀寺を開いた清玉上人になったとか。

信広自身は1574年(天正2年)の伊勢長島一向一揆攻めで命を落としていますが、彼のお墓もここ阿弥陀寺にあります。

10時から法要がはじまり、ぼくら参拝者もお焼香をさせていただきました。
この頃にはざっと200人以上がいたと思います。

信長の廟所は裏手にあります。

手水鉢にも「織田木瓜」の家紋が刻まれていますね。

信長の廟所、信長の墓は近くの本能寺はじめ全国にたくさんありますが、遺骨が埋葬されているとされるのはこの阿弥陀寺だけです。

左手にあるのが森蘭丸、森力丸、森坊丸、いわゆる森三兄弟のお墓です。

観光寺院ではありませんので、6月2日以外にお墓を見学したい場合は必ず寺務所に断ってからお参りしてくださいね。
(事前に断らなくても大丈夫そうです)

ちなみに「山崎の戦い」で光秀に勝利した羽柴秀吉は何度も阿弥陀寺に信長の遺骨を引き渡すように命じたそうです。
しかし遺骨を利用して後継者争いで有利な立場に立とうとする秀吉の行為は、主家を乗っ取ることに等しく「人の道にあらず」と住職の清玉上人は拒絶しつづけたそうです。

けっきょく秀吉が大徳寺でおこなった追善供養の際には遺骨の代わりに信長の木像を棺に納めることで乗り切ったのですが、阿弥陀寺は秀吉の怒りを買い、天下人となった秀吉に寺領の大半を没収されます。没収される前の阿弥陀寺は約900m四方の広大な寺域を持つ大寺院でした。

さらに1587年(天正15年)には今出川大宮(上京区上立売通大宮東入阿弥陀寺町)から現在の場所(上京区寺町通今出川上ル鶴山町14)に強制移転させるなどの嫌がらせを受けたそうです。
千利休はじめ「秀吉と戦った人」ってじつはけっこういるんですね。

本堂内は撮影不可なので、木像の写真は撮れなかったのですが、いただいた資料に写真があったので紹介しますね。

あと家紋の形をした干菓子もいただきました。

次は一年後となりますが、信長にお焼香するという体験もなかなか貴重なことなので、ぜひ来年の6月2日は阿弥陀寺を訪問してみてくださいね。

阿弥陀寺の観光情報

住所 京都市上京区寺町通今出川上る二丁目 鶴山町14
正式名称 蓮臺山 総見院 阿弥陀寺(れんだいさん そうけんいん あみだじ)
通称名称 信長公本廟所 寺町 阿弥陀寺(のぶながこうほんびょうしょ てらまち あみだじ)
観覧料 毎年6月2日の「信長忌」のみ1000円(その日以外は非公開)
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