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【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(2)高松城の水攻め

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前回に続いて、今回も土木工事が勝敗を決めた合戦を紹介する。
今回のケースはかなり直接的に、「技術」が戦いを左右したものである。

1582年(天正10)、織田信長による天下取りは終盤に入っていた。
武田氏を滅ぼし、石山本願寺を屈服させ、また各地に派遣した方面軍も順調に戦いを進めている。
その中の一方面、中国攻めを担当していた羽柴秀吉は、備中高松城の攻略に取り掛かっていた。
世に言う「高松の水攻め」である。

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「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館蔵)

中国の覇者である毛利氏は、備前と備中の境目に7つの城を築いていた。
これを「境目七城」という。その中心となったのが高松城であり、ここを攻め落とさなければ毛利領の奥深くに入ることはかなわなかった。
そこで秀吉はまず、高松城以外の6城を攻め落とし、孤立させた上でいよいよ高松城攻略に取り掛かった。

高松城は平城だが盆地状の湖沼地帯に立っており、三方向は沼に囲まれ、残りの一方向には堀が掘られていた。
これによってこの城は強固な防御力を誇っていたが、弱点もあった。
そして、秀吉はその点を正確に突いた――水攻めを仕掛けたのである。

彼は農民たちを総動員して大規模な土木工事を行い、巨大な堤防を築き、近くの川の流れを変えて、高松城周辺を即席の湖に変えてしまった。
2.8キロメートルに渡る土手を19日間で完成させるという、このすさまじい工事には、相当な資金と土木技術が必要だったに違いない。
戦いに勝つために必要なのが、武将と兵だけでないのがよくわかる一事であろう。

高松城はすっかり孤立してしまった。
毛利氏も援軍を出したが、高松城が湖に囲まれてしまっている状況ではなんとも手の出しようがない。
最終的に両者は外交交渉を行い、秀吉側が譲歩して「領地の割譲と城主の切腹」という条件で講和し、秀吉軍は速やかに撤収していった。

このとき、彼の主君である信長が謀反によって殺害されており、中央へ急行した秀吉は見事に主君の仇を討ち、以後は旧織田政権を吸収して自らの天下取りを目指していくことになるのだが、それはまた別の話である。

初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年7月1日)
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