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【クーデターで読み解く日本史】叔父 vs 甥の裏に隠された敗者の思惑――壬申の乱

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672年(天武元年) ○大海人皇子 ×大友皇子

大化の改新と呼ばれる一連の改革の後、一時期は当時の天皇との衝突によって第一線から外れたことがありつつも、長く政治をリードし続けてきた中大兄皇子(後に皇位を継承して天智天皇)。その彼が亡くなったのは671年(天智10年)12月のことであった。

もともと、その後継者の地位にあったのは弟の大海人皇子(おおあまのみこ)で、政権においても兄を助けて大いに活躍していたとされる。
しかし兄弟の仲は次第に悪化し、代わって天智天皇は自分の子である大友皇子(おおとものみこ)に期待するようになっていく。当時、皇太子になることと同じ意味合いをもっていたという太政大臣(天皇を補佐し政治を取り仕切る役職)に大友皇子を据えたのはまさにそのような状況の反映といっていいだろう。
大海人皇子が酒宴の席で床に槍を刺し、天智天皇が激怒したなどというエピソードが伝わっているくらいで、兄弟関係はのっぴきならないレベルにまで悪化していたわけだ。

ところが、その後に天智天皇は謎の行動をとっている。病に冒された彼は大海人皇子を呼び出し、「お前に皇位を譲る」と言ったのである。
兄の真意が分からない弟は申し出を受け入れずに出家して吉野山に入り、様子をうかがうことにした。皇位寡奪の犯人にされるのを恐れたのだろうか。ただ、当時の官人たちはその姿を「虎に翼をつけて放ってやったようなものだ」と言っていたらしいから、天智天皇の後を継ぐ大友皇子と大海人皇子の衝突は避けられない、という見方はすでにあったものと思われる。

そして天智天皇が亡くなってから半年後、事態が動き出す。
吉野を脱出した大海人皇子ら一行は東国の勢力ヘ呼びかけつつ美濃の野上に入り、ここを拠点に兵を集めた。一方、その動きを察知した大友皇子ら朝廷側も慌てて戦力を確保しようとするが、大海人皇子に先を越されてしまって十分な増強ができなかった。

そもそも、この戦いは単に皇位継承をめぐる叔父と甥の争いという単純な構造ではなく、背後には豪族たちの思惑があった。
大化の改新以降の改革で政治から遠ざけられ、特権も失った地方豪族たちがいれば、朝廷の命で朝鮮と戦って大敗した663年(天智2年)の「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)」でダメージを受けた西国の豪族たちもいる。
また、天智天皇が改革の一環として都を大和から近江に移したことに反発する豪族や、その中で政治の一線から遠ざけられた豪族などもいたのである。彼らはあるいは大海人皇子方に味方し、あるいは大友皇子の徴兵に応えなかったため、情勢は大海人皇子有利へと傾いた。

672年(天武元年)7月、大海人皇子方は朝廷のある大和・近江に向けて兵を進めた。
一方、情勢不利とはいえ中央政権の力を有している大友皇子方も十分な兵を集めていて、緒戦ではむしろ有利に戦いを展開した。しかし大海人皇子に増援がきたことにより形勢は逆転。近江の都は攻め落とされ、追い詰められた大友皇子は自害して果てたのであった。

翌年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、飛鳥京に移った。そして彼およびその後を継いだ妻・持統天皇の時代、中国を手本とした律令政治(律令=法令によって国家を運営し、中央集権体制を確立する政治)が完成へ向かっていくことになる。
さらに「天皇」という呼び名を使い始めたのも天武天皇からであるとされ、壬申の乱は様々な意味で重要なターニングポイントとなった争いといえる。

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