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【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

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榎本秋の家康の謎

家康の母親は於大の方(おだいのかた)という女性で、三河刈屋城主・水野忠政(みずの ただまさ)の次女にあたる。
そんな於大の方がなぜ広忠に嫁ぐことになったのか。これは(当時の戦国大名なら当然のことだが)全くの政略結婚である。

水野氏は尾張・西三河の南に伸びた知多半島に根を張る国衆であり、地理的な事情から松平――ひいてはその裏にある今川につくか、あるいは織田につくかを迫られる立場にあった。
この時、忠政は松平を、その嫡男の信元(のぶもと)は織田を選んで両者に対立が生まれたものの、最終的に父の意見が通って、於大の方を松平広忠のところへ送り込んだわけだ(なお、この婚姻が松平氏との間に繋がりを作ろうとする織田信秀の指示によるものだったという説もある)。

ともあれ、於大の方は広忠の正室になり、彼の嫡男を産んだ。幼名・竹千代。すなわち徳川家康である。
ところが1543年(天文12年)になると忠政が病で亡くなってしまい、信元が当主になって水野氏の方針が転換した。彼は織田氏側につくことを選び、父の死の翌年に於大の方(及び、その妹で形原城主・松平家広(まつだいら いえひろ)に嫁いでいた於上の方(於丈の方))を松平から引き戻してしまうのである。織田・今川の対立が激化したことも背景にあったようだ。当然、家康はわずか3歳で母親から引き離されることになった。
なお『松平記』という史料によると、於大の方を水野氏のもとへ返すにあたっては広忠の家臣が付き従ったが、彼女は「ついてきたら兄に打ち殺される。それではのちに竹千代(家康)に恨まれる」と途中で彼らを帰して家康とその家臣のことを思いやった、という。

結婚・離婚が家の都合で政略的に行われるのであれば、再婚もまた同じことであろう。於大の方は尾張阿古居城主・久松俊勝のもとへ再び送り込まれ、三男四女を産むことになった。
その後、桶狭間の戦いの頃に家康は母と再会。異父兄弟を家臣として受け入れている。
さらにずっと後の1602年(慶長7年)、家康に勧められて上洛し、時の後陽成天皇に謁見した後、間も無く病に倒れて京都で亡くなった。75歳のことである。

なお、水野氏の方はどうなったか。
於大の方の兄・水野信元は織田傘下の武将としてとりあえずの安定を得たが、織田との関係は安定したものではなかった。次第に信長が信元を見る目は厳しくなり、ついに重臣・佐久間信盛の進言がきっかけになって、信元は殺されてしまった。この時、殺害の指示を受け、実行することになったのが甥にあたる家康だった。
とはいえ水野氏が滅ぼされるということはなく、信元の弟・忠重(ただしげ)が後を継いだ。この忠重は信長の死後は家康につき、その後秀吉へ、また家康の元へ戻って、江戸時代に入った。「東照大権現生母の家」として敬われたようである。

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