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【家康の謎】家康は勉強熱心だった?

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榎本秋の家康の謎

家康は名のある戦国大名の中でも屈指の教養人、学問好きというイメージがある。
各種のドラマでも自家製の薬を作って飲んでいるシーンがしばしば描かれているが、これらに象徴されるように趣味的な教養よりは教訓的・実学的な方向へ興味が強かったようだ。これに対して、詩・文章、和歌・連歌といった芸術的なことにはあまり興味を持たなかったとされる。

よほど文明が発展するまで、学問を深める手段は大きく分けてふたつ。すなわち、人に会って教えを乞うか、書物を通して知識を増やすか、だ。家康はこのどちらに対しても熱心だった。
「人」については、豊臣政権時代に五大老として政権重鎮を務め、また江戸幕府を開いてからはそのトップに立った家康であるから、この時代の最高の知識人たちと交流を持つことは容易にかなったはずだ。実際、南禅寺や東福寺の長老、外記(事務官・書記官)の要職を世襲した押小路家(おしのこうじけ)、朱子学者の藤原惺窩(ふじわら せいか)、足利学校の三要元佶(さんよう げんきつ)、相国寺の西笑承兌(さいしょう しょうたい)といった人々と学問談義をしていた、と記録されている。

「書物」の方でも家康の熱心さはよく知られている。単に自分自身が『論語』・『中庸』(中国の儒学書)や、『六韜(りくとう)』『三略』(兵法書)、『史記』『漢書』『貞観政要(じょうがんせいよう )』(歴史書など)、さらに日本の『延喜式(えんぎしき)』(平安時代の法律)や『吾妻鏡』(鎌倉幕府の公式歴史書)なども好んで読んだだけではなかった。
最初は木版によって(伏見版)、しばらくの中断期間を置いて銅活字によって(駿河版)多数の書物を出版させたのである。家康はこの出版計画には相当前のめりであったようで、自らが参加した最後の戦いである大坂の陣の陣中においても、出版をどのように進めるか考えていたとされる(これは大勢が完全に決したという家康のゆとりから来ていたのかもしれないが)。

家康が集めさせ、また出版させた本は後世に残された。
隠居の地であった駿府城には駿府文庫が作られ、これが御三家に三分割して譲られて、それぞれの家の文庫(尾張の蓬左文庫(ほうさぶんこ)、水戸の彰考館文庫(しょうこうかんぶんこ)、紀州の南葵文庫(なんきぶんこ))になった。また、江戸城にもこれとは別に富士見亭文庫(のちの紅葉山文庫)が作られた。

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