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【家康の謎】家康は武術の達人だったの?

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榎本秋の家康の謎

徳川家康は学問好きの教養人だった、と以前この連載で紹介した。
とはいえ、家康は戦国乱世を生きた武将である。彼にとってより近しいのは学問より武術であったはずだ。じっさい家康はさまざまな武術を学び、修めていたという話が現代に残っている。

まず、武士といえば剣術であろう。
家康の剣術の師としては、奥山休賀斎(おくやま きゅうがさい)の名前がよく知られている。新陰流の祖である剣聖・上泉信綱(かみいずみ のぶつな)の弟子にあたる人物だ。
家康は彼のもとで熱心に剣を学び、その秘伝を外に出さないという誓紙まで出している。他にも塚原卜伝(つかはら ぼくでん)の弟子筋の松岡則方(まつおか のりかた)に学び、また一刀流の小野忠明(おの ただあき)や新陰流の柳生宗矩(やぎゅう むねのり)を剣術師範として召し抱えもした。

他にも、馬術は大坪流(おおつぼりゅう)の達者で「東海道で一番だった」などという話があり、弓をとっては三方ヶ原の戦いで浜松城へ逃げる最中、自らの弓で武田の兵を次々射抜いて道を開いたという。
また、砲術も戦国時代きっての砲術の達人、稲富一夢斎(いなとみ いちむさい)に学んだとされている。
ここまでくるといろいろ「盛った」のではないかという疑問もあるが、家康が戦国乱世の人らしくきちんと武術を学んでいたのは間違いないだろう。

ただ、家康(あるいは後世に残る家康伝説)の面白いポイントは、そのような優れた武術を必ずしもひけらかさないところだ。「一応嗜みとして身につけてはいるけれど、それが一番大事だとは思っていない」というスタンスがそこかしこに見えるのである。
例えば『三河物語』では家康が「身分の高い人は周囲を守られているのだから、斬られて避ける術は必要だが、自分から斬りかかる必要はない」(意訳)と語ったとされているし、『玉音抄(ぎょくおんしょう)』という史料にも似たような言葉が収録されている。ちなみに、同じ史料では武術に傾倒する息子の秀忠に対して「接近戦をするのは匹夫の勇に過ぎない」(意訳)と教え諭したともいう。

また、馬術においてもこの精神を感じさせるエピソードがある。
小田原征伐の際、川を渡ることになった。家康はこの時点ですでに馬術の達者として知られていたので諸将はその様子を見守っていた。ところが家康は馬術の腕を見せようとせず、自分の馬から降りて家臣におぶさり、そのまま川を渡ったという。この様を笑う者もいたが、心ある人々は「危ないところを避けることこそ馬術の達者の証拠」(意訳)と感じ入った、とされる。

これらの名言・エピソードに共通するのは、「ただの武将・武士と大将のやるべきことは違う」という思想性だ。
なるほど家康は剣術、馬術、砲術などを好んで学んだかもしれない。しかしそれは(少なくともある程度の大名になってからは)学問などと同じ趣味として身につけたものに過ぎなかったのではないか。そのように感じ取れるのである。

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