攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

…地名に多く見られる、アイヌ語の「pira=崖」由来の語です。ユクエピラチャシの「ピラ」も同源です)の絶壁、北方・東方を深い沢と険峻な山地に守られた「野崎の丘」は、地形を活かした築城にとってうってつけの場所であり(図10・11)、江戸中期~後期の藩家老にして史学者であった松前広長(まつまえ ひろなが)が著した『松前志』(天明元・1781)や探検家・近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)が1807年(文化4年)に幕府に提出した『惣蝦夷地御要害之儀ニ付心付候趣申上候書付』およびこれに同行…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…辺広域を指す地名で、アイヌ語「peker-pet(ペケレ・ペッ、明るいor美しい・川)」を語源としています。その他、帰属する大名家にちなんで「松前陣屋」(『アナタヒラ松前陣屋絵図面』『蝦夷之夢』『北洲新話』)、または所在地点近隣の村落の名をとり「濁川(村)陣屋」(『峠下ヨリ戦争之記』)「文月(村)陣屋」(『南柯紀行』『蝦夷錦』)などと呼ばれました。ほか、幕府書類に「穴平(※)陣屋」がわずかに見えます。その後廃城より後の明治になって以降に、国郡設定以降同地が所属した濁川村が18…

【クーデターで読み解く日本史】アイヌの誇りをかけた闘争――コシャマインの戦い

…の地に住み着いていたアイヌとの間にも交流がもたれたが、やがて摩擦を生むようにもなった。 そして1456年(康正2年)、和人の鍛冶屋とアイヌが注文された小刀の価格・質についてもめた末に和人がアイヌを殺害する事件が発生。これを機にアイヌの反和人感情が爆発し、武装蜂起となったのである。リーダーになったアイヌ首長コシャマイン(胡奢魔尹)の名をとって、コシャマインの戦いと呼ばれる。 和人の集落(館と呼ばれる)を次々と攻め落としたアイヌに立ち向かったのが、この頃蠣崎氏(かきざきし)の客人…

【クーデターで読み解く日本史】鎌倉幕府の弱体化が表面化した出来事――津軽大乱

…蝦夷ヶ島(北海道)のアイヌとも交流・交易があったとされる。ところが、この一族の中で内紛が発生してしまい、それは蝦夷たちの反乱をも誘発して大きな動乱へと発展してしまった。津軽大乱である。 そもそもの始まりは安藤季長(あんどう すえなが)・季久(すえひさ)兄弟が家督をめぐって争ったことだった。彼らは数年にわたって戦ったが決着がつかず、ことを重く見た幕府が裁決を試みたものの、当時大きな力を持っていた内管領(ないかんれい=北条得宗家の執事)の長崎高資(ながさき たかすけ)が賄賂目当て…

【歴代征夷大将軍総覧】坂上田村麻呂――あまたの伝説に名を残す、武士の象徴 758年~811年

…うことでわかりやすい。律令政治が疲弊していく中で、彼の功績にすがった、という部分もあるだろう。だが、東北は彼によって征服された土地であり、そこの住民にとって田村麻呂はかつての敵である。これについては、田村麻呂が宥和政策(ゆうわせいさく)をとったことが理由としてしばしば挙げられるが、それに加えて「蝦夷がアイヌのことだと混同されたことから、田村麻呂が倒したのは自分たちの先祖ではなく北海道の異民族だったと考えるようになったのでは」という説があり、なかなか説得力があるように思われる。

【歴代征夷大将軍総覧】古代の将軍たち

…まれ、現在私たちが「アイヌ」として知る北海道(蝦夷地)の集団のことを主に指していた。しかし、古代において蝦夷は「えみし」と読み、これは後にアイヌにつながる文化を持った北海道の集団のことだけでなく、東北地方などに居住して朝廷には従わないが文化としてはかなり近いものを有する異勢力のことも含めて示した言葉であった、という説が現在では有力だ。 蝦夷は狩猟を得意とし、弓と馬を駆使して大いに朝廷の軍勢を苦しめた。これに対し、朝廷側の勢力拡大は長らく、積極的な武力よりも交渉と移民による部分…

【お城の基礎講座】71. チャシ・北海道の城

…相当するものとして、アイヌ民族が作ったチャシというものがあります。アイヌ独特の文化に基づくチャシについて、今回は学んでいきましょう。 チャシはアイヌの城 チャシというのはアイヌ語で「囲い」という意味です。アイヌの人々が造った城砦(じょうさい)で、北海道、千島列島、樺太などにに約500あります。築造年代は16~18世紀と言われています。チャシは自然地形をうまく利用しており、山や丘などの高い場所に築かれています。また、壕や土塁、崖などで区画された造りです。お城として使われた以外に…

東京国立博物館で特別展「桃山―天下人の100年」を見てきました

…る重要文化財「浜松図屏風」もありました。 しかもこっちは撮影OKなんです。 反対の部屋にはトーハクおなじみの埴輪(はにわ)たちとか。 あとしゃちほこの起源とも言われる「鴟尾(しび)」とか。 常設展のほうにも狩野芳崖が描いた「山水図」とかが展示されていました。 アイヌや琉球のコーナーもあったので、次回は常設展を見る時間もしっかり確保しておこうと思います。 最後はドラマ「半沢直樹」で東京中央銀行のロケ地に使われた、本館の中央階段を見るのも忘れずに! news.kojodan.jp

琉球も、蝦夷も、まだ激動の渦の外にあった……

…。この地には古来からアイヌと呼ばれる独自の文化と歴史を持つ先住民族が居住していた。アイヌ民族自体は北海道だけでなく、南サハリンやクリル列島にも住んでいたが、その文化や言語には少なからず違いがあったとされる。中世になると蝦夷地の南部には和人、すなわち本州の人々も進出していて、15世紀には館主と呼ばれる豪族たちが出現していた。彼らはアイヌと和人の交易ルートの要所である河の入口に拠点を築く。その支配はアイヌたちの反発を招き、15世紀中頃になってシャクシャインの蜂起が発生。以後長く戦…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…交を担った対馬藩や、アイヌを統括しロシアと接することになる松前藩は、それぞれ3年ごと、6年ごとに1年、江戸にいればよかった。領地で朝鮮や北方外交に注力することのほうが重要とされたからである。 江戸時代後期の諸改革や幕末の混乱は、この参勤交代制度にも影響を与えている。徳川吉宗の「享保の改革」では1722年(享保7年)、在府半年・在国1年半と江戸にいなければいけない期間が短縮されている(のちに元へ戻されている)し、幕末の1862年(文久2年)には「3年に1年または100日の在府、…

チャシとグスクについて

…」は北海道(蝦夷)のアイヌ民族による城、「グスク」は沖縄(琉球)の琉球民族による城のことです。文化圏が異なるため、城の成立過程や、その形態も異なっています。 弥一左衛門 | 夏[首里城] チャシ 「チャシ」とは、アイヌ語で砦・館・柵・柵囲いといった意味を持つ言葉です。 チャシは室町時代から江戸時代に築かれており、その建造の目的は、濠を掘り木柵や土塁をめぐらして館や砦として利用する場合と、宗教的行事や会合を行う祭場的な場としての利用に大別されます。 チャシの種類は、丘先式・面崖…

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